阿部謹也氏は、大学時代に学問について迷い悩んでいた時期がありました。卒業論文のテーマを決めなければならない三年生のときに、決められないでいる自分の悩みを担当の上原専禄教授に相談します。上原教授はこう言います。「どんなテーマを選んでも良いが、それをやらなければ生きてゆけないと思われるようなテーマを選ぶべきでしょうね」(阿部謹也自伝 第二回より)。

 学問と人生の結びつきを強く意識した阿部氏は、その後の学び方、生き方をここからスタートしたと言えるでしょう。やがて、若い頃に暮らしたカトリックの修道院での経験と記憶にも背中を押されて、大学院ではドイツ騎士修道会の歴史の研究を進めます。その頃、阿部氏はこんな思いも抱いていたようです。

「私の大学院時代の悩みは、ドイツ中世の研究と自分の生き方とをどのようにして結び付けてゆくのかということに集中していた。そのような悩みを抱え込んだのには、上原専禄教授の影響が大きかったといえるだろう。上原ゼミナールではそのような悩みは自然の悩みと見なされたから、仲間は多かったが、増田四郎教授のゼミナールに移ってからはそのような悩みを訴えることも出来なくなった。周囲の人たちは何の逡巡もなくイギリス史などに熱中できているように見えたからである」(阿部謹也自伝 最終回より)

 そんな中で阿部氏を惹きつけたのはリルケの詩でした。とくにリルケの「寂寥」という詩を、阿部氏は繰り返し読むことになります。その詩の一節。

「寂寥は雨のようだ。
 それは海から夕闇こめた岸辺に打ち上げ、
 人里はなれた曠野から
 いつも寂寥のこめた空に向かって昇る。
 そうして空から街の上に降る。」(高安国世訳)

 そして阿部氏はこのように考えるのです。

「ここでは寂寥は孤独な一人の人間の胸のうちではなく、宇宙の中に位置づけられている。一人の人間の小さな寂しさなどではなく、海であり、雨であり、川である。宇宙の現象として個人の寂寥を位置づけてゆく視線に私はヨーロッパを見たのである。日本にはこのような詩はない。またこのような詩が生まれる母胎もないと私は思った。このような詩を生むヨーロッパを捉えたいと私は思った。この詩は確かにリルケの作品である。しかしリルケ一人によって生み出されたものではない。リルケの背後に数千年に及ぶ歴史があり、それがある段階でリルケによって結晶したのだと私は思った。」(阿部謹也自伝 最終回より)

 最終回では、阿部氏がやはり何度となくその言葉に触れて、ヨーロッパと日本の間に横たわる差異を考える契機ともなった高村光太郎の散文や、金子光晴の詩も引用されます。学問を単なる研究対象としてとらえるだけの学者であれば、けっして踏み入ることはなかったであろう詩や文学の世界への「寄り道」のなかに、実は学問の核心へと通じる世界が潜んでいた──阿部氏が日本の学問の世界でまったく特異な場所を占め、大きな研究成果をあげたその秘密がはっきりと見えてくるのです。