望月さんの職業は、「染色家」「造形作家」になるのでしょうか? しかし、望月さんを紹介するのに職業の名称はあまり意味のあるものではない、と思う時があります。望月さんの職業は、「望月さんという人であること」なのかもしれません。

 愛蔵版『円周の羊―望月通陽作品集―』に収録されている望月さんの文章「遠くからの手」では、現世での自分の仕事への思いを、何千年と繰り返してきた「職業」への愛惜という物語のかたちで表現しています。以下がその冒頭の文章。

 ふとした弾みに、三千年程前のエジプトに住んでいた頃を思い出す。爪弾くリュートや、その年初めての秋風のように、どこか水に似たものに触れると、たちまち過去に暮らした様々な家の佇まいを思い出す。
 私はいつの時代に在っても仕事着以外は何を着ても似合わず、物を作ってそれを売るより他に生き方を知らなかった。だからどの時代の仕事場も、いつも手摺れで光る愛すべき道具達に囲まれていて、区切りがつけば酒を酌み、近所の付合いを嫌い、家族はいつも貧しかった。

 染色の仕事の素晴らしさはもちろんですが、望月さんが自ら魚をさばいてつくる一夜干の味、酒場のカウンターや蕎麦屋のテーブルを前にして繰り出す噺家のような冗談めいた会話のおかしさ、そして言葉じたいが体温を持ち、息をし、脈を打っているかのような文章の仕事も、望月さんならではの職人の手が生み出す同じ色合いの仕事ではないか、と思えます。

 そして何より望月さんの仕事に共通しているのは、日常という繰り返しの日々を、高をくくった態度でやり過ごしたり、早合点したり、諦めたりしないことです。日常生活に追われる慌ただしさには知らぬ顔をし、自分に与えられているものは無限ではない、と思いながら手を動かし、しかし最短距離ではなく寄り道にこそ顔をほころばす姿勢には、日々の瞬間を瑞々しく受けとることのできる気持ちが静かに宿るのでしょう。

 今回の「跨線橋」は、短篇小説を読むのにも似た、深い味わいのある一篇です。このような一日を過ごす僥倖を、慌ただしさにまぎれてみすみす逃しているとすれば、私たちの日常はしだいに水気を失っていき、ほんの一ひねりでポキリと折れてしまうかもしれないのです。