いま、日本では仏教がブームだそうです。
 お寺での坐禅や写経体験会が盛況で、書店では新書を中心とした仏教入門書が売れていると仄聞します。また「きもちいい!仏教」「仏教・神道 キホンの基本」といったタイトルの雑誌の特集もありました。
 仏様におすがりするより他ないほど、辛い時代なのでしょうか。確かに、冷戦の終結後、世界の政治情勢はますます混迷の度合いを深めています。ここ日本でも、経済はグローバル化の波にのみこまれ、来るべき高齢化社会や一連の年金問題など、将来に向けた漠たる不安を誰もが持たざるを得ない時代になっています。そこで、「癒し」あるいは「自分探し」のため、仏教に何らかの“出口”を見出そうとしている人が増えているのでしょう。

 しかし一方で日本の仏教は、長らく「葬式仏教」などと揶揄され、教団は硬直化し、衰退の一途を辿っていると、廃仏毀釈のあった近代以降から、言われ続けている現状もあります。寺檀制度は崩壊寸前のように思えますし、一部教団の拝金主義が批判されたこともあります。それなのに、いま仏教は静かなブームを呼んでいるというわけです。ブームなのか衰退なのか、一体どちらなのでしょうか? ブームと信仰はどう違うのでしょうか?

 こうした疑問から、次号の特集「考える仏教」はスタートいたしました。その内容を申し上げると、一つはブームと衰退の両極をつなぐ、仏教のリアルな立ち位置について確認する、つまりなぜいま仏教が求められるのかを考える。二つめは、伝来から千数百年、日本の文化や思想に多大な影響を与えてきた、仏教の思想の真髄について考えてみる、ということです。そして、禅僧、仏教学者、脳科学者、作家、評論家、住職、エッセイストの方々に、仏教についていろいろと考えていただきました。

 今回紹介するのは、その中の一つ、東京大学の仏教学者・末木文美士さんのインタビュー「なぜ日本の近代は仏教を必要としたのか」です。
 末木さんはこれまで古代・中世の仏教史を研究の中心に据えて、『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』(新潮文庫)、『鎌倉仏教形成論 思想史の立場から』(法蔵館)といった著作を上梓しています。しかしその末木さんに大きな「変化」が訪れました。それは古代・中世の仏教史研究から、近代以降の日本仏教へ、研究の対象がシフトしたというのです(この「変化」の詳細はインタビューにありますので、ご覧になってください)。

そしてその「変化」は、2004年6月に刊行された、「近代日本の思想・再考」と題された『明治思想家論』、『近代日本と仏教』(ともにトランスビュー)に結実しています。この二冊で末木さんは、これまで軽視され続けてきた近代以降の日本仏教に焦点をあて、明治の仏教者や仏教思想、丸山眞男の仏教論など、「空白」の日本近代仏教について示唆に富んだ論述をしています。そして中でも説得力と凄みにあふれるのはこんな一節です。

「『仏教ブーム』と言われる今日、どれだけ本気で仏教の問題が考えられているであろうか。口当たりのよい仏教の入門書がとぶように売れ、総合雑誌がその場しのぎの仏教特集を組んだとしても、それが本当に積極的な思想の力となりうるであろうか」(『明治思想家論』17頁)、あるいは、「今日、またぞろあたかも新しいことであるかのようにポスト近代が言われ、ポスト近代を担うものであるかのように仏教が脚光を浴びる。およそ陳腐で、かつての『近代の超克』論と較べてもよほど次元の低い議論が、臆面もなく蒸し返される。そんな仏教ならば、葬式仏教と一緒に滅びた方がよほど光栄であろう」(『近代日本と仏教』17頁)。

 こうした末木さんの学者らしからぬ迫力の言説に感銘を受け、圧倒され、今回の特集「考える仏教」は始まったといっても過言ではありません。
 インタビューでは、教科書には「廃仏毀釈」としか記されていない、明治以降の日本仏教の、近代化への苦闘や思想としての熟成から、現代にまで積み残された仏教の課題について触れています。つまりなぜ日本の近代は仏教を必要としたのか、そして現代における仏教の課題がメインテーマです。そこでは、「葬式仏教を条件付で肯定する」「靖国神社再考」といった、現代の仏教について刺激的な提言がたくさん出てきます。現在の仏教ブームもちょっと違った視点から眺めることができるようになること請け合いです。ぜひご一読ください。