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 「個」と「全体」について
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 創刊二号(秋号)が発売になりました。ご覧くださいましたでしょうか? 今
回は創刊号よりもさらに一層充実した誌面になっているのではないかと自負して
います。

 校了明けに読んでいた本があります。小澤征爾・大江健三郎両氏の共著『同じ年に生まれて』(中央公論新社)。音楽と文学という異分野同士であることによって、お互いの仕事に敬意を払う基本的な態度を保ちながら、しかし異分野であるがゆえにかえって率直な言葉でも語り合うことができた──そんな刺戟的な対話をまとめた本です。

 小澤氏と大江氏の共通点は、日本という枠を超えてその仕事が評価されていることでしょう。それは、お二人ともに常に自分自身が何の組織にも所属せず、まったくの個人として自分の能力だけを頼みながら世界と対峙しなければならない「個人商店」的存在である、ということかもしれません。

 対談のなかで、小澤氏がこう語っているところがあります。

「僕という日本人がいて、それよりも日本の国が大事かというと、そんなこと絶対ないと思う。僕はボストン・シンフォニーにいて、あるいはサイトウ・キネンのオーケストラにいるけど、滅私をしてでもやるなんていう気持ちはまったくない。僕個人がまず第一。自分がいるあいだは、ボストン・シンフォニーの長であるから、いろんなことをやりますけども、それがうまくいかなくなったら辞める決心、もしくは責任を初めから持っていなければいけない。辞めないまでもそれに次ぐような責任の取り方が必ずあるから、それを分かった上で事を運ぶ。それをやらないで、みんなに諮りながら諮りながらやっていくと、結局は、何ていうんですか、要するに、形は民主主義だけど、愚かな民主主義、何ていうのかな……、長の個が出てこないやり方でやっちゃう。これが一番恐ろしいことだ」

 小澤氏の発言は、それより先に大江氏が語っていた「個」と「国家」の問題から引き継がれたものですが、その大江氏の発言のなかにはこんな部分があります。

「やはり自分という個人、自分の個ということを強く考えて、その自分をはっきり表現しようとしたり、ほかの個を教育してやろうと思ったりするということは、自己中心主義というのじゃない。この世界のなかに真っすぐ立って生きていることであって、それは重要だと思います。 小さな島に、海に囲まれて暮らしてて、ほかの国から侵略してきた人間に殺されたり奴隷にされたりしないできた日本人には、自分の一人の個を直立させねばならないという考え方、真っすぐ立ってる人間にまず個がならなきゃならないという考え方は、弱いと思う」

 日本における「個人主義」の問題は、古くは夏目漱石にとっての大きな問題であったように、今もなお日本人にとっての課題でありテーマであり続けているように思います。小澤氏と大江氏の対話の核心部分は、やはり個人というものが日本のなかでどのように育つべきか、という大きなテーマへとつながっているように感じました。そんな折、昨日大きなニュースが二つ報じられました。

 北朝鮮からの拉致被害者の一時帰国と、企業に所属する一研究員がノーベル賞を受賞したという二つのニュースです。

 ひとりの個人が、国家という大きな装置のなかで翻弄され、人によってはそれまでの生涯に流れた時間とほぼ等しい時間を、母国から救いの手が伸びることもまったくないまま、異国の地で過ごさざるを得なかった拉致事件。それは、ある日突然、自分が選んだ形ではなく、やはり国家と国家の交渉のなかで一時的に帰国が「許される」という展開に進みつつあります。拉致被害者の家族の方が「複雑な思い」という言葉を使ってその胸中を語っていましたが、この問題は単なる政治問題ではなく、個人の心の問題にまで深く及ぶ「複雑な」出来事です。

 拉致被害者の日本人は強制的に与えられた限定的な日常のなかで、しかし、あるリアルな日常というものを個人として積み上げてきたはずです。その日常自体は、母国の人々によって、ただ「拉致されていた空白の時間」として否定されるべきものではない、かけがえのない日常でもあったはずです。それは国家間の交渉や「拉致事件」という言葉、あるいは「国益」という言葉からはすべてこぼれ落ちてしまうかもしれない、個人に帰する何ものかです。私たちは、その「見えない」部分についての想像力を働かせながら、彼らを日本に迎えなければならないのです。

 もうひとつのニュースは、物理や化学といった分野のノーベル賞は「博士」が受賞するもの、という我々の常識をくつがえすものでした。新聞の報道によれば、受賞者の田中耕一氏が属する島津製作所は最近は二期連続で赤字だったそうです。そうではあっても、百三十年続いた社の理念、すなわち個人の独創的な研究を引き出すような環境を整え、数々の成果を上げることを大事にしてきた会社だとも報じられています。社員の半数が技術者で、業界では独創的な人材を多く抱え込んでいることで知られており、業績が悪くなっても人を育てることに熱心な会社、だといいます(10月10日朝日新聞朝刊)。目先のつじつま合わせの社益を追いかけるのではなく、社の理念をもとに長期的な視点で新しい技術の開発を目指し、結果としての社益に導こうとする考え方。だとすれば、日本企業には珍しい「個人」を尊ぶ理念がノーベル賞受賞へとつながった、ということなのかもしれません。

 拉致事件とノーベル賞をひとつの事柄でまとめようとは思いません。しかし、「個」と「全体」という問題を一冊の本によって考えさせられていた矢先に届いたこの二つのニュースは、現在目の前にある生々しい「個」と「全体」の問題として私の前に立ち現れてきた──そのように感じられてなりませんでした。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)