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 椎間板ヘルニアの話
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 先週から「考える人」の入稿の真っ盛りなので、どうしても頭は次号の特集「からだ」の周辺に向かってしまいます。

 三十歳の頃、私は椎間板ヘルニアで一ヶ月入院しました。もちろん、ある日突然なったわけではありません。ヘルニアになるまでには長い長い道のりがありました。

 最初の場面は五月のある晴れた日。独身だった私は、住んでいたマンションのベランダにふとんを干そうとしていました。ふとんですからそれほど重いわけではありません。ところが、両手で抱えてふっと持ち上げた瞬間、ビシッと音が聞こえるような激痛が腰に走りました。ぎっくり腰です。私はそのまま抱え上げようとしたふとんに上半身をあずけてしばらく息もたえだえに突っ伏していました。

 翌日は雑誌のグラビアの撮影で吉祥寺のスタジオジブリを訪ね、宮崎駿さんの撮影に立会いました。宮崎さんとは初対面です。名刺を手渡しながらお辞儀をしようとしたのですが、腰から背中、首にかけて重く硬い板がはめ込まれているようで、頭がきちんと下がりません。イタタタ……ぎっくり腰をやるとお辞儀ができないのか、と、内心びっくりするやら痛いやらでした。

 それからしばらく、すっきりしない腰痛をかかえながら、しかしどこかで「たかが腰痛」とたかをくくって、シップを貼ったり、マッサージを受けたりでやり過ごしていたのです。ところがその年の冬になると、次第に腰痛が悪化し始めました。

 それからは、人に勧められるまま、さまざまな治療院を渡り歩きました。電気系あり、漢方系あり、整体系あり、気功系あり。なぜ渡り歩いたかと言うと、「なかなか治らないなあ、もっと一発で治るような治療がないのかなあ」という、これもまた今思えばですが、ずいぶんないものねだりの発想からでした。そして、そんな気持ちとは反比例するように、症状はどんどん悪化します。

 そして正月休み。実家で休みながらも、椅子にさえ座れない状態になっていました。横になっても縦になってもどうにも痛みが去らない。夜、痛くて痛くて、自分がうなる声を聞きながら明けない夜を過ごすうちに、意識も怪しくなってきます。コントロールできない痛みというものは、人間の精神のもろさを露呈させます。何も考えられなくなってくると、人は行動もできず、ひたすら受身の状態に陥るのです。深夜、トイレにたった父親が私のうなり声を聞きつけ、ただごとならぬと判断し救急車が呼ばれました。

 入院は一ヶ月に及びました。手術をすすめられましたが、それは断って退院し、その翌日、雪の降りしきる中、入院中に人から紹介されていた腰痛の名医といわれる先生を訪ねました。そこで学んだことは、腰痛は自分で治さなければならない、というシンプルな事実でした。それもすぐには治らない。時間もかけなければならない。ご自身も脚を悪くされ、正座もできないという先生の言葉は説得力があり、胸にしみいるようでした。

 一度、椎間板ヘルニアになったら、もとには戻りません。しかし、自分でからだの柔軟性を保ち、腹筋を中心とした筋力を鍛え、その故障部分をカバーする態勢を自分でつくるしかない。先生の考え方はそういうものでした。そして、指導を受けたとおり、朝晩の腰痛体操、水泳(ただしクロールや背泳に限る)、歩くこと、という三点セットを日常生活のなかに取入れて、リハビリテーションをゆるゆると開始しました。

 しかし痛みは少しずつしか解消しません。それでも先生の言われることを信じて、毎日歩き、一週間に二回は泳ぎ、朝晩の腰痛体操も欠かしませんでした。三ヶ月ぐらい経ってやっと少し腰が軽くなってきたことを感じ、長距離を歩くことの楽しさも覚えるようになりました。そして、楽しみにもなってきた散歩をしながら、ふと沈丁花の匂いを感じる頃になると、長時間椅子に座っていることも恐くなくなってきたことに気づきました。

 十年以上経過した今も、実は時折、腰が痛みます。しかし、それは忙しすぎてストレスが溜って来たシグナルだと受け止めるようになりました。

 腰痛に関しては「他力本願」ではどうにもならない、とわかってくると、誰かにどうにかしてほしい、とは考えなくなります。すると痛みじたいも排除すべき悪とは思わなくなり、痛みに対する「恐れ」や「あせり」も薄れていきます。

 今も、毎朝腰痛体操をしながら、自分のからだが今どういう気持ちでいるのか、聞き耳を立てています。腰痛体操のポイントは、息をつめずに、深くゆっくりと息を吐きながら動作をとること。深い呼吸を繰り返すうちに、眠っていたからだも目覚めてゆくのがわかります。

 もし腰痛体操について知りたい、という方がいらしたら、インターネットで「腰痛体操」と「石田肇」(先生の名前です)のふたつのキーワードで検索してみてください。図解入りの腰痛体操にヒットするはずです。ぜひ試してみてください(ただし、腰痛の中には内臓からくるものもあります。専門医に診てもらうこともお忘れなく)。それから一番大切なのは、忙しさとストレスからどうにかして逃れることです。そんなことはできない……そうでしょうか? 一ヶ月入院することを考えれば、今の忙しさは少しずつならどうにでも軽減できるはずです。

 私は椎間板ヘルニアになることで、自分のからだの声に耳を澄ますことができるようになりました。病は必ずしも敵ではない。そう思えるようになったことも、いい経験だったと思います。

 人間には限界があり、また無限とも思えるような可能性も同時に秘めている……からだに内包されているそんな美しい矛盾について、次号の特集では考えていきたいと思います。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)