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 理不尽で臭いもの
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 先日、養老孟司さん甲野善紀さんと最新号の特集「からだに訊く」のお礼もかねて食事をしました。私は、甲野さんにお会いするのは初めてです。特集のために撮影された甲野さんのポートレイトがある種の「殺気」をおびたものだったので、内心どきどきしながら会食の場所に向かいました。

 武術という言葉は、私の高校時代の苦い思い出につながります。第一志望校の私立高校に落ち、都立高校にも落ちた私は、「滑り止め」の私立男子高に入学しました。入ってみてびっくりしたのは、進学校を標榜するその学校が、「文武両道」という方針で柔道も剣道も体育の必修課目だったことです。

 柔道は冬の畳の冷たさが忘れられません。しかしもっと辛かったのはなんと言っても剣道でした。篭手は共用だったので、手を入れると、中は一日何回も使用された複数の手の汗、人間クサヤ汁でどろどろです。授業が終わって篭手をとり、石鹸を使って手をごしごし洗ってもその異様な匂いは消えませんでした。ずんぐりとした体格の剣道の教師は口数が極端に少なく、今思い起しても、何をどのような言葉で私たち生徒に伝えていたのか……思い出せる言葉の印象が何も残っていないのです。

 ただ、授業の最初の頃に、その教師がひとつだけ妙にはっきりと強調したのは、竹刀で剣道場のガラス窓を割るな、ということでした。古い木製の窓枠にはまっていたガラスは、生徒たちが激しく動くとびりびりと音を立てて震え、ガラス越しに見える外の景色が歪んで見えるような昔のタイプの薄手のものでした。

 そして三回目の授業が終わる間際、私のふりあげた竹刀は、私の頭のうしろで一枚のガラス窓をパリンと軽い音を立てながら見事に打ち抜きました。事が起こってみると、教師の最初の忠告は予言であったかのようにも思え、自分の不始末が情けないばかり。ガラスの破片を片付け、剣道場の奥にある教師の控え室に呼ばれて行くと、教師は黙りこんだまま。視線も合わせてくれません。私の「申し訳ありませんでした」という言葉が受け取り手のないままあたりの空間に漂い、気まずい時が流れました。

 私の高校三年間の武道体験は、私のなかに「理不尽」と「臭い」というイメージだけを残して終わりました。黒澤明の映画に出て来るような武道の世界はフィクションに過ぎず、今の時代に生き残った武道とは、古臭く、保守的で、非合理なもの、と無意識にインプットされ続けていたと思います。

 それでは甲野さんはどうか。 初対面なのに話が弾みました。武術を言葉によって伝えようとする方だったからです。「武術は言葉では伝えられない。からだで覚えよ」というようなスタイルではなく、術のメカニズムや動きを刻々と表現し、そこから導き出される「原理」を巧みな比喩を使って解説してくれました。何より印象的だったのは、甲野さんの語る武術の明解な「合理性」です。なぜそういう動きになるのか。その理屈とはどういうものか。話をうかがいながら頭でも納得がいくのです。

 甲野さんは実際に私にも技をかけてくださいました。とにかく手も足も出ない、というのはこのことかと思うような体験でした。自分が最大限の力を入れて甲野さんの腕を押さえ込んでも、全身の力を抜き取られたように逆に押し倒されてしまうのです。さっきまでは持ち上げることのできた甲野さんのからだが、甲野さんの構えひとつでびくとも動かず、反対に私のからだが沈み込んでしまう。そんな技をかけられた後も、ではなぜそういうことが起きたのかを解説してくださる。頭もからだも深く納得します。

 前近代が非合理の時代で、近代以降が合理性の時代だというのは嘘だと思いました。それがきちんと言語化されたかどうかという問題に過ぎないのではないか。武術というジャンルのなかに塩漬けにされていた、私たちの「からだ」をめぐる合理性が、甲野さんによって塩抜きされて、今、私たちの目の前に鮮やかに提示されている――甲野さんの技と言葉を前にしながら、私はそんな印象を持ちました。

 明日発売される「考える人」の最新号の特集で、甲野さんの魅力の一部にぜひ触れていただければと思います。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)