中西悟堂の名を耳にしたことのある人は、それほど多くはないでしょう。知っていたとしても、「野鳥の会」の創設者として、その名を記憶にとどめているくらいだと思います。
 悟堂は単なる野鳥研究家ではありませんでした。今から半世紀以上も前に、機械文明、消費文明の行き過ぎに警鐘を鳴らしていた思想家でした。悟堂は、かつてNHKテレビのインタビューにこんなふうに答えています。
「今の産業文明、機械文明は限りない欲望の世界なんですよ。欲っていうのは必ず後ろに欲求不満がある。だんだんエスカレートしていく」

 悟堂が西洋文明に対して懐疑を抱くようになるまでには、さまざまな「知の門」を通り抜けます。義父が僧侶だったため、悟堂は15歳で仏門に入ります。他方、若い頃から文学に目覚め、歌や詩を創作し、絵筆も取るようになります。若山牧水、高村光太郎、木村荘八など多くの文学者や画家たちと交流するようになり、同時にマルクシズム、アナーキズムの世界観を知るようになります。

 30歳の時から3年間、突然、木食菜食生活に入ります。その頃について、自伝ではこう書いています。
「イデオロギーの中を右往左往しましたが、いっこうに落ち着きませんでした。今の生活に入って、初めて無欲の生活のよさを知りました。このあとは無私の生活でしょう。世間の賛否はわかりません。が、物質の中に幸福を追い求めることは、結局欲望の奴隷、欲求不満の傀儡となることです。」

 悟堂は林の中に机を置き、本を読み、雑草やメダカを食します。そして、物質主義の脅威への警告者だったタゴール、ガンジーに深く傾倒していきます。東洋の叡知こそが人類を幸福に導くと確信するようになります。
「私には自然への帰依と信奉が強く、いかなる思想も自然を欠いては浮き上がってしまうという信念さえ持つようなってもいた。そしてその自然の中の第一の対象が鳥であった。」(『愛鳥自伝』)

 やがて昭和9年、38歳の時、「日本野鳥の会」を創設し、『野鳥』を創刊します。「野鳥」という言葉も、バードウォッチングなどもちろんない頃のこと。盧溝橋事件の3年前のことでした。

 筆者の小林照幸さんは、デビュー作『毒蛇』で開高健賞奨励賞を受賞。『朱鷺(トキ)の遺言』では、最年少で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しました。小さい頃、戸川幸夫さんの動物小説が大好きだったそうで、「自然と人間」の関わりはライフワークといえます。「悟堂が今、生きていたら、ペットブームや環境破壊に対してどう思うんでしょうね。悟堂の言葉は今、聞いても少しも古く感じません。広く、知ってもらいたい人物です」。