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 小津安二郎の「布」
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 昨年は批評家・小林秀雄の生誕百年でした。今年、生誕百年を迎えたのは映画監督・小津安二郎です。これから年末にかけて、生誕百年を記念した様々な刊行物や行事が控えているようですが、なんといっても待たれていたのは、デジタルリマスターされた小津安二郎作品のDVD - BOXシリーズの発売でした。第一集には『東京物語』『彼岸花』『お早よう』『秋日和』『秋刀魚の味』の五作が収録されています。私も発売と同時に手に入れました。

 小津安二郎をめぐる著作は数々あります。なかでも、トーキー以降の小津作品のほぼすべての撮影を手がけた厚田雄春氏に長い時間をかけてインタビューし、まとめられた本『小津安二郎物語』(蓮実重彦氏と厚田雄春氏の共著 筑摩書房刊)は、蓮実氏と厚田氏の数年にもわたる長いやりとりがあったからこそ明らかになっていく映画製作の現場の詳細が大変興味深いものでした。小津安二郎の息づかいのようなものまでもが、厚田氏の明晰な記憶によって淡々と再現される大変貴重な本です。

 この本のなかには、最後までスタンダードサイズの作品しか撮らなかった小津安二郎が、シネマスコープについてどう思っていたのかという蓮実氏の質問に対し、小津安二郎のセリフを厚田氏が思い出すところがあります。小津安二郎はこう言ったそうです。「郵便ポストの口からのぞいたようなサイズはいやだよ、って(笑)。まあ、いつものユーモアですけどね」

 スタンダードサイズの映画は、ワイド画面ではない旧来のテレビで見ていても、ほとんどそのままトリミングされることなく見ることができます。そして、このサイズを心理的に決定する入り口として、タイトルバックが果たす役割が少なからずあるように思います。配役や制作スタッフの名前が並ぶ小津作品のタイトルバックには、お決まりのように生成り風の布が使われていました。今回の五作品のうち、遺作となった『秋刀魚の味』を除いたすべての作品が、ほぼ同じような生成り風の布をバックにしているのです。

 もちろん、このタイトルバックは小津作品独自のものというよりは、ある時期までの邦画には珍しくない普通のスタイルだったのかもしれません。たとえば、成瀬巳喜男監督の『めし』には、絣の着物がタイトルバックに使われていました。シネマスコープの映画で布をタイトルバックにした作品があるとは思えませんが、仮にあったとしても何となく落ち着かないものだったでしょう。アンバランスに横長の膳で食事が運ばれてきたような違和感を与えたに違いありません。

 では、このスタイルはいつ誰が始めたものなのでしょうか? 映画史に疎い私にはまったくわかりません。いずれにせよ、布を使ったタイトルバックというものは、今という時代に生きる私たちが、半世紀ほど前の小津映画の世界に入り込んでいくための、さりげないイントロダクションの役割を果たしていることだけはたしかです。

 このタイトルバックに由来しているのだと思いますが、今回のDVD - BOXは、タイトルバックに似た生成りの布が貼られた箱に六枚のDVDが納められています。この布貼のボックスを開けていたら、最近ほとんど姿を消しつつある函入りで布貼の本──私たちは「クロス装」といいますが──について連想が広がりました。

「函入りクロス装」の本は昔はそれほど珍しいものではありませんでした。私の書棚を見渡すだけでも、たとえば、福永武彦『意中の文士たち』、『江藤淳全対話』、『吉田健一著作集』、吉本隆明『初期歌謡論』、中上健次『枯木灘』、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』……と次々にピックアップできます。しかし、それもだいたい八〇年代までに刊行されたもので、九〇年代に入ると、限定版かごく少部数の本以外では、「函入りクロス装」の装幀は珍しいものになってしまいました。

 海外では、上等な装幀といえばやはり革装になるのだと思います。どこか掌に吸いつくようなひんやりとした手触りは、欧文の文字組ともあいまって重厚な雰囲気を醸しだします。そもそも昔のヨーロッパでは、蔵書家自らが自分の蔵書をオリジナルで革装にしていたようです。ひと昔前のドイツでは、本を所蔵するということは一般家庭では当たり前のことではなく、書棚にずらりと本が並んでいるような家は特別な地位や職種に限られていたと聞いたことがあります。

 ちなみに新潮社では、増刷を重ねた本で発行部数が十万部を超えた本については記念に革装の本を特別に制作して著者に謹呈し、同じものを会社にも保管しています。また、例えば近年の限定版では、武満徹氏の遺著『時間の園丁』の限定版も革装でした。やはり革装は特別なものという位置づけです(英語の辞書に限って言えば、普及版と並んで販売されている革装版は、繰り返し使うには革装のほうが堅牢である、という理由が先かもしれません)。

 背継ぎ表紙といって、背文字の部分から数センチの幅を革装にして、残りはクロスか紙で表紙をつくる製本もあります。新潮社の最近の例では、愛蔵版の『小林秀雄全集』がこの「背継ぎ表紙」です。他社の例ですが、昭和48年に刊行された吉田健一の『書架記』も、特に限定版や愛蔵版でもない普及版で革の背継ぎ表紙の装幀を採用していました。

 私自身は、「愛書家」でも「限定版」コレクターでもありませんが、函入りクロス装にはなんともいえない愛着があります。それはやはり手にして読んでいるときの手触りです。化繊の服だと皮膚に馴染まず、綿や絹が100%のものだと違和感がないのと同じように、敏感な掌にはクロス装が実にいい感触なのです。おそらく、湿度の高い日本では、革装よりもクロス装のほうが、掌の湿度とのかねあいによって、馴染み易いのではないかと思います。また、函を小口側を下にして両手で持ち、軽く上下に振って、クロス装の本が少し顔を出したところを手でつかみ出すという動作も少し儀式めいていて、本を読むという特別な時間の幕開きをその一連の動作とともに準備する感じがあり、面倒といえば面倒なこの手続きが、私は何故か気に入っています。

 ペーパーバックや文庫本などの、究極に簡素化統一化された装幀も実は嫌いではありません。鞄に放り込んだり、場合によってはポケットにねじ込んで持ち運びできるところも文庫やペーパーバックの強みであり魅力でもあります。「気軽にどこでも」ということもまた本ならではの機能です。ペーパーバックや文庫本を「ジーパンにTシャツ」に喩えれば、さしずめ函入りクロス装の本は「和服」といったところでしょうか。着付けが面倒なのも、函入りクロス装の本を手にして読む際の儀式的動作と、どこかで共通していないでしょうか。

 本のクロス装の歴史と、小津安二郎の映画のタイトルバックに登場する布の歴史がどこかで交錯するのかどうか、このことについても私には何の知識もありません。原作が小説という場合もあることも、「本」の連想から布のタイトルバックに繋がったということがあるのでしょうか? 函入りクロス装の本について、好きなわりにはあまり詳しいことを知らないことがわかってきました。単行本の編集者でもある私としては、やはり一度きちんと勉強しておきたい気持ちになっています。

 今週末に発売される第6号(別途お知らせしているとおり、特集は「京都」です)に続いて、来年早々に刊行する「考える人」冬号では、読書を特集のテーマに予定しています。そのなかで「函入りクロス装」についても少しだけページを割いて探求してみようかと今考え始めているところです。そのいっぽうで、紙を使わない最新の技術を注ぎ込んだ、未来形の「本」のかたちについても特集のなかでご紹介する予定です。どうぞご期待ください。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)