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 迷う
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 駅の切符自動販売機の前で、途方に暮れる人を見かけることがあります。私も同じように迷うことがあります。

 この前も、渋谷の駅から「みなとみらい」駅までの切符の買い方がわかりませんでした。自販機の上に掲げてある料金表示のある路線図を見てもさっぱりわからなかったのですが、なぜか「みなとみらい」の往復切符について欄外に貼り出された小さな掲示ばかりが目について、片道はどう買えばいいのか最後までわかりませんでした。

 私は「すこぶる」付きの方向音痴です。飲み込みが遅く、勘違いも多い人間ですが、それにしてもわかりにくい場所や掲示が多すぎるのではないかと感じます。再々引き合いに出してしまいますが、『うるさい日本の私』の中島義道氏が指摘するように、日本の町はいたるところでアナウンスをし、のぼりや看板で人々の注意(?)を喚起しようとする「騒音」に満ち満ちています。それなのに肝心のことがわかりにくいのはいったいどうしたことでしょう。

 みなとみらい(最近こういうひらがな表記が増えてきたのも解せないことのひとつです)に着いて所用を済ませて、今度は違う方角から「みなとみらい」駅に戻ろうとしたところ、これがまたわかりにくいのです。最寄りのビルにとりあえず入って、表示にしたがって駅に向かおうとしたら、表示の矢印がいったいどこを指しているのかがわからない。矢印は二次元の表現ですが、私たちの歩く空間は三次元です。つまりこの二次元の矢印は使い方しだいではかえって混乱をまねくことがあります。ビルなどの表示のデザインは「サイン計画」といい、専門家が担当すると聞いたことがありますが、このような矢印の使い方では、いったい何の「専門」なのかと疑問に思うばかりです。

 六本木ヒルズにでかけた時もそうでした。自分が今どこにいて、どこに何があるのか、建物のなかの相互の位置関係はどうなっているのか、そのような根本的なことが実にわかりにくいのです。人がどのように動き、何を見て判断するのか、という基本的な常識に欠けた設計ではないかと感じました。不安を覚えながら歩いていると、要所に掲げてある配置図を食い入るように見ている人がけっこういて、そこで人の流れが「澱み」のように滞っていました。このビルを設計した外国人の建築家がそのビルの外見のデザインを日本の鎧兜のかたち(だったと思います)を基にどうこうしたと言っていたのを読んだことがありますが、外側のデザインに何を持ってこようが、その内側を歩く人間の気持ちについてどれだけ想像力を働かせたのかと怪しむばかりです。

 自分の方向音痴を棚に上げ、なぜ八つ当たりするようなことを書いたかと言うと、先日でかけた恵比寿にある東京都写真美術館もまた、わかりにくい建物だったからです。恵比寿ガーデンプレイスの一角に写真美術館はありますが、遠くから見て「ああ、あそこにあるんだな」とすぐにわかるようにはなっていません。確かこのあたりに、と自信のない気持ちのままビルに近づいて行くと、もともとはなかったであろう掲示のようなものが壁にべたべたと貼られてあり、写真美術館の入り口はこちら、と表示されているのです。ここでもまた「わかりにくいのは方向音痴の私だけじゃない」と妙に納得する思いでした。

 やっと見つけた入り口から建物の内部に入ると、すぐ右手には目立つようにミュージアムグッズのショップが目に入りますが、肝心の展覧会場がどこなのかがわかりません。結局、左側にあるエレベーターに乗らなければ会場には行けないらしいことがわかります。もちろん二度目からは迷うことはないかもしれません。しかし、最初からなるほどと自然にわかる、人の動きや人の注意力に留意した設計、動線計画はもちろんあり得たはずなのです。

 こうして、やや憮然とした気持ちで会場に向かい、見始めたのは、田沼武能さんの写真展「60億の肖像」でした。しかし、です。この展覧会は私のうんざりする気持ちを吹き飛ばす、実にすばらしいものでした。四部構成にわかれた展示は、第一部が「戦後の子どもたち」、第二部が「文士・芸術家の肖像」、第三部が「人間万歳」、第四部が「地球っこたちは、いま」と題されています。第二部を除いて、主役はおもに日本および世界の子どもたちです。日本の敗戦直後に巷にあふれた戦災孤児から、戦火にさらされたアフガニスタン、イラクの子どもたちまで、田沼さんの写真には一貫して同じ視線が貫かれています。

 それは、田沼さんの人間をいとおしいと思う気持ちです。どんなに悲惨な目にあっても、どんなに貧しくても、あるいは、モノに恵まれた先進諸国の子どもたちであっても、田沼さんの視線は曇ったり曲がったりはしないのです。そこには政治的な意図も、おしつけがましいヒューマニズムもない、芸術表現という名の下心もない、ある種「突き抜けた」人間への愛情が貫かれているばかりなのです。

 昭和三十年に東京・浅草で撮影された「ままごとからけんか」に発展してしまったふたりの女の子たちの写真と、1988年に撮影された「枯葉剤の影響か眼球のないまま生まれてきた」ベトナムの少女の写真。被写体に焦点を合わせていた時の田沼さんの表情はそれぞれ違うものだったでしょう。しかし、彼女たちに注がれる田沼さんの視線のありようは、変わらない同じものだと感じます。ベトナムの少女の写真は告発として撮ることも可能だったはずです。ところが、そういった写真は、被写体の少女の内面は括弧でくくってしまい、見えなくしてしまいがちです。田沼さんの写真は、「枯葉剤の被害者」という括弧付きの報道写真とは違って、一回きりの人生である生身の彼女自身をきちんと静かに写しているのです。私はそのことに大きな感動を覚えました。

 写真に写し取られた瞬間の子どもたちは、「ここではないどこか」へ自力では出かけることのできない場所と時間に生きているのです。その国その土地その時代に生をうける瞬間は、選びようのない瞬間です。そこで生きるしかなかった子どもたちの、一回きりの生とは何かをこの展覧会は伝えてきます。彼らや彼女たちは「迷う」余地すらなかったのです。

 写真展「60億の肖像」は今週の日曜日、22日まで開かれています。


「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)