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 フィルムの運命
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 7月3日発売、次号の特集は「フィンランドの森、デンマークの暮らし」です。創刊二周年を記念しての総力特集を組みました。北欧のふたつの小さな国を、フィンランドは写真家の今森光彦さんが、デンマークは編集部が、それぞれ取材を担当しました。

 海外取材には独特のプレッシャーがあります。国内取材に較べて取材期間は限定されていますし、費用を考えると、やり直し、仕切直しは難しい。今回は取材期間の最終日直前にデンマーク王室のロイヤル・ウェディングの撮影を予定していましたから、帰国してからすぐに原稿をまとめなければなりません。特集ページはふだんの二倍近くを割いています。「これで帰国便が事故にでも遭ったら目も当てられないな」という考えがチラリと頭をかすめたりもします。

 そんなプレッシャーのなかでデンマークの現地取材は予定どおり無事終了しました。しかし、帰国するまでは「どうなるかわからない」イチかバチかの心配ごとがあったのです。それは、撮影したフィルムでした。ひょっとするとすべておじゃん、水の泡になっているかもしれないという、想像もしたくない可能性が、あったのです。

 今はデジタルカメラ全盛になりました。報道写真はもちろん広告写真もデジカメが主流です。しかし「考える人」の写真に限って言えば、九割ぐらいは従来のフィルムで撮影したものです。フィンランドの撮影も、デンマークの撮影も、フィルムでした。新潮社写真部の若手カメラマン、菅野健児くんが撮影の状況を想定しながら選んだフィルムを約二百本、一つのリュックに詰め込んで、機材と一緒に手荷物として機内に運びこんだのです。

 手荷物検査はご存知のとおりX線検査です。検査官は「フィルムが感光することはないので検査しても大丈夫です」と必ず言います。しかし、フィルムの会社がどう言っているかというと「感光することもありますから気をつけてください」。万が一ということもありますから、私たちは仕事で使うフィルム、撮影後のフィルムは絶対にX線検査に通さないようにしています。手荷物検査にさしかかったら、すかさず「これは仕事の撮影用のフィルムなので通さないでください」と断ります。それでも「決まりですから」と言われることがあります。その場合にはあるセリフを淡々と言うことになるのですが……そのセリフはテロリストに悪用されると大変ですからここには書きません。検査官はしぶしぶフィルムのパッケージをひとつひとつ手にとってチェックして通してくれます。実際、行きの成田空港ではフィルムをX線検査に通すことなく、私たちは機上の人になったのです。

 デンマークのコペンハーゲン空港。到着した私たちを待っていたのはまたしても手荷物検査でした。乗るときに手荷物検査というのは当然のことながら、降りた後の手荷物検査があるとはちょっと意外です。考えてみれば、ほんの少し前にスペインで列車爆破事件があり、約十日後にはロイヤル・ウェディングが控えており、デンマークはイラクに派兵しています。国内に入ってくる者に対して警備を厳重にするのは当然、と言える状況でした。

 しかしデンマークの係員はにこやかでしたので、順番を待ちながら、これならば大丈夫だろうと高をくくっていたのです。ところが……。背の高い係員はこちらの言葉にも反応せず、「あなたたちが飛行機に乗っていた間じゅう、このフィルムには宇宙線が当っていた。それよりも遥かに弱いX線を使っているんだから心配する必要はまったくない」と説明し、テコでも動かない、という態勢に突入します。

 こちらも譲れません。このリュックいっぱいのフィルムが到着した空港で全部感光してしまったら、笑い話にもなりません。菅野くんも必死で食い下がります。そうしたら、「それならば、フィルムのパッケージをすべて開けて検査するがよいか」とのお答え。「もちろんかまいません。どうぞ」。それから約二十分ほどをかけて、フィルムケースが納まっている小さな段ボールを開け、さらにフィルムが入っているアルミのパッケージ袋をひとつひとつ破って開けて中身を出す、という作業をすべてのフィルムに対して始めたのです。

 どこかから手伝いにやってきた係員も加わって、検査は六人がかりです。検査台にはどんどんむかれてゆくフィルム袋の山が出来ていきます。後からやって来る搭乗客は何事かという表情でこちらをジロジロと眺めます。検査を終えたデンマーク人らしきおじさんが満面の笑顔で近づいてきて「きみたち、係員に仕事を作ってあげたんだね。彼らも楽しんでるんだよ」と励ましなのかからかいなのかわからない言葉をかけていきます。こちらは中途半端な容疑者のようで、ちょっと腹が立つような、すみませんと弱気に頭を下げたくなるような、不思議な気持ちにサンドイッチされたままその作業を見守りました。係員の女性は単純な作業に少し飽きたのか「これで何を撮るの?」と袋をむく作業を続けながら笑顔で聞いてきます。「デンマークの風景とか」と菅野くん。「まあ、デンマークの風景を? こんなにたくさん?」と愛想笑いなのか、単に呆れたのか、奇妙な笑顔で目を丸くしています。

 しかし、X線検査を受けることなく現地入りできるのですから、まあ文句はありません。一本も残らず袋を開けられて、剥き出しになったフィルムの眺めはなかなか壮観でした。

 そして翌日の朝。飛行機で国内の移動をするためにふたたびコペンハーゲン空港にやってきました。そして手荷物検査。ところが今回は検査官は今度こそ本当にテコでも動かないのです。たしかに未使用のフィルムはすでにアルミの袋から出された後であり、一度袋を開けているのは何か手を加えた証拠、という考え方は成り立ちます。昨日の検査の経緯を話しても相手にされません。とにかく、X線検査をしないのなら飛行機には乗せない、という一点ばりで膠着状態になってしまいました。目的地のビルンド空港には私たちを待っている人もいます。「どうしようか?」と私。「これは駄目ですね。まあほとんど感光する可能性がないのはわかっているんですけど、でも機械によっては危ないんです。機械の種類がわかれば大丈夫なんだけどなあ」と菅野くん。

 彼は、日本で開かれた検査機器の見本市を見に行ったことがあり(そんな見本市にまで行くわけ!? と突っ込みたくなりましたが)、そこで見た最新機器はかなり鮮明な画像を映し出すもので、もし機械がこのタイプだとすると感光してしまう可能性がある、というのです。この最新機器は中近東あたりの空港には最近導入されて使われているものらしい。そして検査機器が最新の機種かどうかは「モニターを見ればわかります」と彼は言います。しかし位置関係から言って、モニターを見ることができるのは、すでに自分の手荷物をX線の機械に入れて、受け取る側に歩を進めなければ確認できないのです。モニターを見て「あっ」と思ったときにはすでに「あとの祭り」。

「もしその最新機器だとわかったら、現地で新しいフィルムを手に入れましょう」ということになり、私たちはリュックに詰めたフィルムをX線検査にかけました。そして、受け取る側からモニターを凝視する菅野くん。私は見てもわからないので菅野くんの顔を祈るような気持ちで見ています。彼は表情を変えず、「あ、これなら大丈夫です。普通の機械でした」。見本市よありがとう! 第一関門通過です。

 その後の撮影は順調でした。デンマークの六組の家族の取材と撮影もうまくいったという手ごたえがありました。そして最終日前日は、ロイヤル・ウェディングの市内のパレードの撮影です。至近距離で撮影するため、市内の目抜き通り、ロイヤルコペンハーゲンの目の前の位置を確保しようと二時間近く場所とりで沿道に立ち尽くして待ちました。その甲斐もあって、菅野くんのすぐ目の前をフレデリック王子と妃のメアリー・ドナルドソンさんがこちら側に目を向けて笑顔で通り過ぎて行く、という僥倖にも恵まれました。撮影の手ごたえは充分すぎるほどです。しかし、それまでの国内移動の際に受けたX線検査で、私たちは次々に完全敗退し、フィルムはX線の機械のなかを何度か通っています。 最悪の事態を想定すると、撮影済みの写真も駄目になっているわ、ロイヤル・ウェディングを撮影するフィルムもすでに役に立たない状況であるわ……ということもあり得ないわけではない。

 菅野くんはもちろん私以上に心配していたはずです。しかし「もしフィルムが感光してたら、また撮影に来ますから」とあまり表情も変えずに余裕の構え。(だけどロイヤル・ウェディングはどうするのさ?)と私は喉まで声が出かかりましたが、彼の前向きな態度の前では「そうだよな。また来ればいいよな」と私もカラ元気で応えるしかありません。

 そして、日本に帰国して翌々日。菅野くんから内線電話がかかってきました。第一声からは、大丈夫だったのか駄目だったのかわからない、彼の独特の冷静沈着な声のトーンに心臓が高鳴ります。「マツイエさん、フィルムですけど、今現像から届いて見てみたら、全部大丈夫でした」。その日の夜、私は帰国後初めて深く眠りにつくことができました。

 次号の特集ページでは、ロイヤル・ウェディングのパレードのお二人が、私たちの目の前を通り過ぎて行った写真を一ページ大でどーんと掲載しています。私が言うのもなんですが、いい写真です。ぜひご覧いただきたいと思います。

 いやいやそれにしても、X線検査、おそるべし。次回からはデジカメか……。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)