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 よーい!
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 先日、小学校の運動会を参観してきました。今から二十年ほど前、独身時代に住んでいたアパートの間近に小学校があって、運動会の音が聞こえてくるとふらふらと見物に行っていたものです。短距離走と大玉ころがし、リレーを見るのが何よりの愉しみでした。しかし今は防犯上の理由から、まったく小学校に縁のない人間が運動会を見物に行くことはなかなか難しい時代になってしまったようです。保護者であることを証明するネームプレートを首から下げて、さらに受付を済ませてから入場するシステムです。  私が陣取った席は、短距離走のスタート地点。なんとなく決めた位置でした。ところが運動会が始まってみると、この場所は特等席であることが判明します。それは、小学生たちのスタートの表情をたっぷりと見ることができる場所だったからです。

 スタート位置についたとき。先生が「よーい!」と声を上げたとき。パンッとピストルがなったとき。スタートダッシュするとき。ほんの五秒前後の時間のなかで、子どもの顔は千変万化します。なんだかまるでやる気も集中力もない表情だった男の子が、スタートと同時に「ぜったい勝つ!」という顔つきに豹変し、鼻の穴をふくらませ口もゆがめて走り始めます。予防注射を受ける列に並んでいるかのような不安そうな顔をした男の子。緊張のあまり肩が上がって、上半身で浅い呼吸をしている女の子。表情を変えず、ピストルをかまえる先生の手元を虎視眈々と見つめる男の子。

 へらへらと笑っている子もいれば、思い詰めたような子もいる。百人いれば百種類の表情がつぎつぎに登場するのです。彼らを見ているうちに、なんともいえない気持ちになっていきました。コントロールしようのないその顔を、無防備にさらけだすこと。大人の社会で暮らすことに慣れていると、この無防備さはあまりにも新鮮で懐かしく映ります。表情ばかりではありません。彼らの走り去る後ろ姿もまた百人百様です。子どもたちなりにすでに個々の歴史を刻んでいることが現れている姿は、もう誰にも置き換えることのできない何ものかなのです。

 ビデオカメラなどのテレビコマーシャルに描かれるように、運動会といえば、我が子可愛さでかけつける親の祭典、というイメージがあります。もちろんそれはそうかもしれません。しかし私が独身時代にふらふらと運動会に吸い寄せられたように、その子どもたちの親でなくても、小学校の運動会にはなんともいえない魅力があるのです。それは自分のなかにある少々酸欠状態の何ものかにエネルギーを補給できる場所だからではないでしょうか。  沖縄の離島の小学校の運動会を見たことがあります。そこでは全島の人々が集まって、たまたま居合わせた観光客も、犬までもふらふらと寄ってきて、まさに一丸となって開催されるお祭りの様相を呈していました。そこにはビデオカメラを持たずに、声を張り上げて応援する大人たちの姿がたくさんあります。主役が子どもたちなのか、応援する大人なのかわからなくなるぐらいの熱気が溢れていました。

 ビデオカメラをかまえれば、おのずと自分の子どもにズームします。ビデオカメラをかまえれば、自分の前を横切る他人をわずらわしく感じるでしょう。私もほかならぬビデオカメラをかまえていた親の一人ですが、運動会のなかで一番楽しめて、思わず声を張り上げてしまったのは、ビデオカメラを下ろしていた時に見た高学年のリレーでした。

 校長先生の最初の挨拶のなかには「近隣の住民の方々には、日頃の練習中から騒音でご迷惑をおかけしております」というお詫びの言葉も入っていました。それは心配りある校長先生の良心から発した言葉であり、それをスピーカー越しに聞いたであろう近隣の住民は「挨拶があったのだから仕方ないか」と納得する場合もきっとあったはず、とは思います。

 しかし、やはり本来は、近隣の住民も思わず駆けつけたくなるような運動会であればもっといいはずなのに、と思わずにはいられませんでした。このご時世では、受付もなくまったくフリーで開催するのは到底無理なのかもしれません。「何かあったら誰が責任をとるのか」。しかし、ビデオカメラをかまえた親ばかりが囲んで見ている運動会は、一歩も二歩も離れて見ると、どこか排他的でちょっと不気味な感じもしないではありません。もし、近隣の共同体の誰もが自由に参加できる運動会、という形態に変化してくれば、ふだんから近隣の住民のあいだにも「子どもたちを見守ろう」とする意識が広がってくるのではないでしょうか。

 いっそのこと運動会はビデオもカメラもなしにして、近隣の住民にも積極的に声をかけ、共同体の皆が心待ちにする一大行事にしたらどうか、という妄想まで湧いてきます。運動会を親のものばかりにしていてはもったいない。子どもたちの千変万化の表情を見ていたら、そんな気分にもなった一日でした。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)