┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 徹夜じたいに意味はないけれど
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 先週「考える人」(2005年冬号)が校了になりました。今回の特集「考える仏教」は、編集部で最も若い編集者が企画した特集です。インタビューから対談のまとめ、取材の同行、脚注の原稿書きまで、底知れぬ体力とつやつや光る知力に物を言わせて、その大部分を一人で担当し編集しました。

 校了直前の夜更け、午前三時過ぎにひと仕事片付けて、次の作業に移ろうとしているらしい作業テーブルから「ぷしゅ」という音が聞こえます。ふり返ると、彼が缶ビールを開けているところでした。照れ笑いしながら「もうひと仕事あるので、ちょっとこれで気合い入れます」と彼。あまり年寄りくさいことは言いたくないのですが、校了までの過程を見ていて、やはり雑誌は「若さと体力と勢い」で乗り越えてしまう場面もあるなあ、と感じ入りました。

 古い話になりますが、まだ若かった頃の私が「これは自分で考えて、自分でやったな」と最初に実感できた雑誌があります。それは小説新潮編集部に在籍していた頃、1989年に臨時増刊として刊行した『アメリカ青春小説特集』という一冊でした。

 その頃は、アメリカの作家が書いた小説がとにかく面白くて、日本の出版社も次々と翻訳作品を刊行していた時代でした。村上春樹さんや柴田元幸さんの翻訳の魅力によって読者の数を増やしたことも大きかったと思います。アメリカの作家たちが輝いて見えました。そして「読んでいるだけじゃ物足りない。できれば直接訪ねてインタビューをしてみたい。彼らはどんな話し方をし、どんな暮らし方をしながら、どんな書斎で小説を書いているのだろう」。そんな単純素朴な動機から企画を立てたのです。

 予算を立て(……いろいろな苦労はありましたが省略します)、企画を通してから(……いろいろな障害はありましたが省略します)、インタビューしたい作家のリストを作り、日本のエージェントを通じて取材の申し込みをしました。金銭的、時間的な余裕はまったくありません。限られた期間のなかで、作家たちのスケジュールを調整しつつ、広いアメリカ全土を効率的な順番で回っていく旅程を組み立てました。

 まだEメールもない時代でした。交渉や調整が面倒な割には大したお金になるわけでもないのに、日本のエージェントの人たちは粘り強く取材の交渉およびスケジュール調整にあたってくれました。そして出発直前のぎりぎりになって、二週間弱の期間内で10人の作家と会うめどが立ったのでした。飛行機とレンタカーを使い、アメリカ人の通訳の女性とカメラマンと私の三人で,東から西へアメリカを横断する長い旅です。もしひとつでも予定が狂えば、ドミノ倒しで計画が成り立たなくなる強行軍のプランでした。

 旅のなかでは小さな失敗から大きな失敗までいろいろなエピソードがありました(……これだけでも「何話分」にもなってしまうので省略します)。帰国した翌日から10人分のインタビュー原稿をすべて自分でテープ起こしをし(我ながらよくやった!)、会社のなかの小さな作業室をしばらく占領してインタビュー記事を書き、同時に村上春樹さんや柴田元幸さん、斎藤英治さんといった方々の翻訳した掲載原稿を入稿し、50人に及ぶアメリカ作家の顔写真入りWHO'S WHOを作り……と今思い返してもあれだけのことをよく同時にこなせたものだとため息が出ます。

 ぎりぎり最後になって入稿したのは、インタビューもした若い新人作家ジョン・フォックスの『潮騒の少年』というデビュー小説、翻訳原稿400枚でした。出来たところから翻訳者の越川芳明さんから原稿をいただく日々が続きました。他の頁はすべて校了になって、最後の最後に残りの10枚ほどをいただいた日は、今も忘れぬ2月23日の深夜です。越川さんからの「できました」という声を電話で聞いてから、タクシーにのって神田にある東京電機大学の越川さんの研究室を訪ねました。その日は東京のあちこちにパトカーが待機し、まるで戒厳令下のようなただならぬ気配が漂っていました。

 翌日は昭和天皇の「大喪の礼」の日でした。会社に戻り、明け方までかかって最後の原稿の入稿作業をし、印刷所の夜間受付に原稿を届けて、タクシーで渋谷の自宅まで帰ると、すでに朝の8時すぎ。シャワーを浴びてひと息つきテレビを点けると、昭和天皇のご遺体を乗せた車がゆっくりと道を進む映像が映っていました。儀式を終えたその車は、当時私が住んでいたアパート近くの甲州街道を経て、初台のランプから高速にあがり西へと目指します。そのまま一睡もせず食事をとりながらテレビ中継を見続けて、車列がこちらに向かい始めるのを待ちました。服を着替えふらふらと家を出て、甲州街道まで歩いていきます。そして沿道に集まった静かな人々の背中越しに、黒塗りのゆっくりと走る車を見送ったのでした。

 最後に入稿した作家、ジョン・フォックスはその数年後エイズで亡くなりました。インタビューしたときには独身だったローリー・ムーアはその後結婚し子どもが生まれました(そのあたりの物語は彼女の短篇集『アメリカの鳥たち』にフィクションとして描かれています)。当時はテレビの仕事を中心に担当していた通訳の女性は、「ティム・オブライエンがいちばん格好よかった」とずいぶん刺戟を受けた様子でした。そして数年前には、なんと作家としてデビューしてしまったのです(ルース・L.オゼキ『イヤー・オブ・ミート』)。カメラマンとして同行してくださった垂見健吾さんとは、その後もずっと現在にいたるまで様々な仕事をご一緒しています。

 校了し見本が届く瞬間は、悪夢のようだった校了期間が遥か後ろへと遠のく瞬間です。体力、馬力があったとしても、やはり休息がなければ体を痛めます。何の予定もない休日のありがたさをかみしめつつ、次の号をどうするかという気分の切り替えもまた必要です。深夜まで働くキツさが編集者の醍醐味……というわけでは決してありません。ではありますが、キツい日々は思い出としていつまでも残り、編集という仕事への愛着を少しずつ深めているのかもしれません。

 それではKくん、どうぞよい休日を。……アレレ? 予定表を見てみれば、Kくん土日まで出張だ……。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)