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 連絡が届かない場所
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 二十三年前、入社したばかりの頃は、Eメールなどありませんでした。ファクスを使う著者すらまだ珍しかった時代です。月刊誌の編集部に配属されていたので、毎月末、締め切りが近づくと著者に電話で連絡をとり、原稿が完成したとなれば電車に乗って著者のお宅にうかがいました。

 編集部には著者別の地図が用意されていました。歴代の担当編集者による手描き地図がボール紙の台紙に貼られてある、手擦れしたちょっとみすぼらしいもの。初めてその家を訪ねる場合には、手描き地図を片手に著者の家を探すのです。わかりやすい上手な地図もあれば、地図というよりも「概念図」といったほうがいいような大雑把なものもあり、実態に即していない古い地図があった場合は新担当者(たとえば私)が描き直していました。私は大変な方向音痴で「地図が読めない男」なのですが、地図を描くのは好きでした。

 生原稿を持ち帰るのは、大変な緊張を強いられます。コピーをとってくださる著者もいましたが、たいていの場合は「世界でたったひとつ」の生原稿を著者から直接手渡されます。活字になる前の著者の生原稿の筆跡を目で追いながら、自分が最初の読者になる喜びを静かに噛みしめる瞬間です。しかし行きはよいよい帰りは怖い。行きがけよりもグッと持ち重りのするようになった鞄を提げながら、もし生原稿を紛失したら……とチラッと想像するだけでゾッとしたものでした。

 それでは、たとえば大阪在住の著者の場合はどうしていたか。締め切り前に郵送されてくる場合もありますが、校了間際に原稿が完成する場合は、空港止めの航空便で届くことがあるのです。空港から会社までさらに陸路で配送されるのを待っていると、原稿を手にするのは翌日になってしまいます。だから飛行機が着くのにあわせて、空港まで取りに行くわけです。そしてそれは夜の最終便に集中していました。空港まで取りに行く役割は、編集部の最若手、つまり一番下っ端である私の仕事なのです。夜なので行き帰りはタクシーを使うことができることになっていました。

 夜の首都高をひた走るタクシーに乗っていると、映画「惑星ソラリス」を撮ったタルコフスキーが、未来都市の光景として東京の首都高を撮影した気持ちがわかります。暗いチューブのなかに橙色のランプが規則的に並ぶなかを疾走していると、人間の暮らしやその体温が感じられる光景はどんどん後ろに遠ざかって行くようでした。乗車時に羽田空港と会社との往復を運転手さんに告げていますから、運転手さんの側も特命を帯びた気分にもなるのか、スピードも加速されて、ますます夜のドライブが非現実的なものになっていきます。

 そんなドライブの最中に、私は不思議な開放感を覚えたものでした。会社では校了作業が進んでおり、編集部の先輩諸氏は時計をにらみながらあれこれ黙々とデスクワークをしている。私はといえば、単にお使いさんとしてクルマに乗って走っているだけ。自分も会社に戻ればやることが山積みなのに、この往復の一、二時間の間は、やらなければならないことから仮釈放されているのです。正確に言えば、やるべきことの先延ばし状態に過ぎないのですが、とにかく、この時間は、どうどうと居眠りさえできるのです。しかし寝不足続きの頭の中はクルマの加速に比例してどんどん冴え渡っていきます。もしあの時代にも携帯電話があったなら、タクシーまで連絡が入って「マツイエくん、悪いけど帰りに六本木に寄って、挿絵を受けとってきてくれる?」と追加の仕事まで頼まれていたでしょう。あの時代は、いったん会社を出てしまえば、会社から連絡が入ることはありませんでした。それもまた、あの開放感の理由だったと思います。

 今は原稿のやり取りは圧倒的にEメールです。雑誌であれば著者校正はファクスでやりとりできます。著者から聞いた極端なケースでは、連載の依頼から原稿のやりとりまで、すべてメールとファクスと電話で済んでしまい、その担当編集者と一度も会わずに連載が終わってしまった、ということもあるようです。時間や労力、交通費の無駄が省けていいではないか、という考え方もできるでしょうが、この先には「校閲者と印刷所があれば、編集者なんていらないんじゃないの?」という近未来の光景すら見えてくるようです。

 昨日は長野に出張でした。朝8時過ぎの新幹線は満員でした。車窓を眺めていると、大宮を過ぎたあたりから雨が雪に変わります。軽井沢は雪景色でした。そして二つ先の上田で降りるとなぜか雨。そしてタクシーに乗り、打ち合わせと撮影のために会う予定の、玉村豊男氏の経営する冬季休業中のワイナリーへと向かいます。標高が高いところにあるので、雨はすぐに雪に変わり、ワイナリーへと続く登り道はわだちも消えて真っ白です。

 玉村さんは私が新入社員として配属された月刊誌の執筆者としては、先陣を切ってファクスを導入し、ファクスで原稿を送ってくださった「第一号」の方でした。ちょうどその頃、都内から軽井沢に移住したための必然的な導入だったのですが、ファクスの機械一台がまだ百万円以上した時代ですから、大変な「資本投下」だったはず。

 冬季休業中のヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリーのカフェの広い窓からは、上田市内から北アルプスまで見渡すことのできる、壮大な雪景色が広がっていました。音も聞こえなくなるような、これもまたどこかタルコフスキー的な光景です。玉村さんとも滅多に会う機会はなくなってしまいましたが、こうして顔を見ながら仕事の話をしていると、やっぱり著者とは会って話すのが一番だという気持ちがふつふつとわいてきます。 玉村さんのお父様は日本画家の玉村方久斗氏。私が所属していた月刊誌に、坂口安吾の連載が掲載されていた時代がありました。その坂口安吾の連載の挿絵を担当していたのが玉村方久斗氏だったのです。連載の途中だったのか、終了後の話なのか、記憶が定かではないのですが、ちょっと印象的な話があります。

 私が入社したときには最古参の編集者だった人が、その頃は一番の若手で下っ端。毎月、お使いで、玉村家に挿絵をいただきにあがっていたそうです。その頃は仕事の依頼は電話ではなく手紙。〆きり日を書いて投函し、その約束の日に訪ねていくのが慣わしだったといいます。そしてある日、約束の日に玉村家を訪ねると、いつもとはどこか違う、静まりかえった空気が玉村家のなかを流れています。家の奥に来訪を告げる声をかけると、玄関先にお子さんらしき人が現れて、「父は先週、亡くなりました」とぽつりと告げられます。一瞬頭は真っ白、茫然として言葉がでなかった──こんなウソのようなエピソードを聞いたことがあります。「その時、家のなかには、坊やだった玉村さんもいたような気がするんだけど、玄関に出てきた男の子が玉村さんだったかどうかはわからない」

 いつでもどこでも連絡はつく、と思える時代に生きている私たちには、はるか遠い昔話。私は帰りの新幹線で、デッキと座席のあいだを行ったり来たりしながら、携帯電話で仕事の連絡をとり続けていました。そして、あっという間に東京駅に着いていました。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)