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 池の中(続き)
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 小さな池で黒メダカたちは無事越冬し、春のぬるい水のなかをゆるゆる泳いでいるはずでした。ところが突然、どこかからカエルがやってきたのです。池のなかを怪しく潜行するカエルに、黒メダカは食べられてしまったらしい。あんなにたくさんいたのに、ホテイアオイの陰で生き延びた一匹を残し、ほかの仲間は姿を消してしまいました。

 私は自分の魂がしおれるほどがっかりしました。住みつかれてしまったカエルを追い出すわけにもいかず、さりとてこの池ではもうメダカは飼えません。生き残った最後の一匹を救い出そうと網を取りに行き、池に戻ってみると、その一匹も見失ってしまいました。水面には一人乗りの丸いボートを細長いオールで漕いでいるかのような、5ミリぐらいの水棲昆虫がいて、ぴくんぴくんと元気に漕いでいます。カエルには見向きもされない味の虫なのでしょうか。

 カエルに抱きついて体液を吸い取ってしまう恐ろしいタガメでもいれば状況は変わるかもしれません。しかしこの池にはゲンゴロウはいてもタガメなどいないはずです。いたとしても人間の大人の手のひらほどもあるカエルですから、抱きつこうにも抱きつけないかもしれません。だいいちタガメはメダカを襲ってしまうのでは……。突然始まった「カエル政権」はこの池を長期にわたって支配することになるのでしょうか。

 あれ? 池の前にぼんやりとしゃがみこんでいた私の視界に、小さな黒い影のようなものが見えます。私は姿勢をそのままに息をつめしっかりと焦点を合わせます。え? 黒メダカ!? それもたくさん。続々と。いったん黒メダカの姿が目に入り始めると、水面近くを泳ぐ黒メダカの群がはっきりと見えてきました。体長一センチにも満たない稚魚までいっぱい泳いでいる……。なんだ、生きてたのか。これだけの数の黒メダカは、いったいどこに身を潜めていたのでしょうか。

 カエルはメダカを食べない……のでしょうか? あるいは食べたくてもメダカのほうが動きが素早くて、カエルには食べられないのでしょうか? 何か視線のようなものを感じてそちらに顔を向けると、水際の苔むした岩に両手をかけて、目と鼻だけを出したカエルがこちらをじろりと見上げています。長い両足は池の底に向かって伸びています。愚かなような、抜け目ないようなカエルの顔を見ていたら、なんだか馬鹿にされたような気がして、反射的に立ち上がってしまいました。その瞬間、カエルも黒メダカもパッと池の底へと姿を消しました。

「黒メダカがヒメダカを駆逐したのではなくて、黒メダカとヒメダカが交配しているうちに、ヒメダカの特徴が消えたんじゃないかと思います」。私に淡々と説明するのは、今年出版部に配属されたばかりの新入社員のKさんです。Kさんは国立大学の理系の大学院で「発生」をテーマに研究していた人。そのままいけば生物学者になっていたかもしれませんが、思うところあって新潮社を受け、編集者として入社したのです。歓送迎会の自己紹介で「メダカの研究をしていました」と言うので、私はKさんに近づいて声をかけたというわけです。

 正確に言えば、Kさんはメダカの研究をしていたのではなく、発生を司る遺伝子の仕組みを解明するために、メダカを使って研究をしていた、ということになるようでした。遺伝子の研究でショウジョウバエがよく使われるように、魚の世界では、実験に適した性質を持っているメダカがよく使われているらしい。英語の表記はmedaka。tsunamiのように日本名が一般化しているそうです。メダカは日本と東南アジア周辺でのみ棲息していて、アメリカ大陸やヨーロッパ大陸にはいないとのこと。

 メダカのヒレをメスを使って小さく切り取ると(ヒレをメスで切るのは、実はメダカにとって痛いことらしく、麻酔をかけてから切るそうです)、ヒレは時間の経過とともに元のかたちに戻ります。元のかたちに戻ったところでその再生はピタリと止まるそうです。「あたりまえじゃないか」と言う人もいるかもしれませんが、再生が完了したところでストップをかける仕組みがなければ、そのようにはうまく元通りにならないわけで、不思議と言えば実に不思議です。ちなみにオタマジャクシの場合も、ヒレの部分を切りとってもやがて再生するそうです。足が生え始めたばかりのオタマジャクシの足を切ったらどうかといえば、やはり再生します。しかし完全にカエルになってしまうと、同じように足を切ってしまったらもう再生はしないそうです。不思議です。

 池に混在していたヒメダカと黒メダカがいつの間にか全部黒メダカになってしまったことについてのKさんの説明を私が乱暴に要約すれば――(私の記憶で書いているので違っていたらすみません。文責は私にあります)――メダカの皮膚には四つの色素細胞があり、それは黒、白、黄、虹の四種類。それぞれの細胞は条件によって小さくなったり大きくなったりする。それによってからだの色が変わる。ヒメダカには黒の色素細胞がない。ヒメダカと黒メダカが交配したために、池に棲息していたメダカは次世代で四種類の色素細胞を持つメダカが次々に現れた。だから、黒メダカばっかりになったように見えた、というわけです。

 黒メダカを池のなかで見失ってしまったことにはもうひとつの理由がありました。それは「背地効果」というもの。Kさんの説明によれば、メダカの棲息する池に差し込む太陽の光の量と、その太陽の光が池の底でどれくらい反射するかによって、メダカの皮膚の色が変わるようなのです。つまりメダカがきれいなプールに棲息していたとすると、メダカの背中の色は淡く明るくなる。落葉が積もっているような薄暗い池に棲息している場合には、池の底は太陽の光をあまり反射しないので、メダカの背中の色も暗くなる、というのです。すなわち、いずれの場合も、水面の上からメダカを探し出そうとした場合に、姿を目立たなくする効果があるというわけです。

 立食式のパーティだった出版部の歓送迎会は、あちこちに小さな人だまりができていました。見慣れた顔のなかで、もうひとりの新人Mさん、「メダカ博士」のKさんの二人はやはりよく目立ちます。黒メダカの群にヒメダカが二匹。会社が池だとするならば、同じ会社の中を泳ぐ会社員にも「背地効果」がきっと働いているに違いありません。気づかないうちに同じ背中の色になっている……。自分の背中の色を棚にあげて言えば、「まあそんなに染まらなくてもいいんだよ」と声をかけたいところでしたが。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)