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 刺される
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 昔から蚊に刺されるタイプでした。まっ先に、誰よりも多く、刺されます。小学生の頃は蚊に刺されてもへっちゃらで、ぷくりとふくらんだ部分にツメを立てて押しつけ、目と鼻と口を描いたりして遊んでました。あの頃は虫除けスプレーなどというものはありませんでしたから、油断すればすぐに刺されます。たくさん刺されると、ムキになってその数を数えていました。十カ所や二十カ所は珍しくありません。腕を裏返すようにしたり膝の裏を覗き込むようにしたりして刺された部分を数え上げると、その数の多さに満足し、次には声高に親へ申告します。「蚊に刺されコンテスト」でもやれば、少なくとも小学生地区大会ぐらいなら上位入賞ができる「実力」だったと思います。

 蚊を初めておそろしいと思ったのは、大学一年生の夏休みでした。中上健次さんの長篇『枯木灘』を読んで、どうしても枯木灘の周辺を自分で旅して見てみたいと思い、ひと夏のあいだ紀伊半島を旅したのです。その頃、南紀白浜で親族が「画房」というジャズ喫茶をやっていて(今はもうないと思います)、学生時代の私はジャズばかり聴いていましたから、訪ねたことのなかった白浜の親族を訪ねてしばらく滞在した後、鉄道で枯木灘周辺に足をのばし、さびれた宿を一人で泊まり歩いていました。

 たしか江住という町の、駅にごく近い宿に泊まった最初の晩でした。日が沈み始めると、東京で見る蚊の二倍ほどの大きさがある赤茶の蚊が部屋に入ってきました。刺されたらさぞや、という顔つき体つきだったので、大急ぎで宿の人にお願いをして蚊取り線香をもらい、部屋の真ん中で焚きました。蚊取り線香を持って帰ってきた部屋にはもう何匹も飛び回っているのが見えます。ところが蚊取り線香を焚いても、彼らは飛び続けているのです。しばらく様子を見ていると、その巨大な蚊はいったん畳に墜落しても、ふたたび飛び上がるヤツがいる! 目を疑いましたが、同じように甦って飛び立つ蚊の姿を何回も見ました。それはまるでいったんノックアウトされて失神したボクサーが、ふたたび立ち上がるかのようでした。シンとした部屋のなかで、蚊が畳の上に落ちる、ペシ、ペシという音が何度となく聞こえます。空恐ろしくなった私は、部屋の障子を全部閉めて、部屋のなかに蚊取り線香の煙をもうもうと立ちこめるようにし、私も息を殺して相手の出方を見ることにしました。やがて、ペシ、ペシという音が聞こえなくなり、蚊はやっと全滅。枯木灘という言葉を目にすると、私は今もあの赤茶の蚊を思い出します。

 蚊の季節には早い五月の箱根で、社員旅行先の旅館でも、編集部の他の人間は誰ひとり蚊に刺されなかったのに、就寝時に私だけが蚊の襲撃を受けて、手や足、顔などに二十カ所以上刺されたこともありました。つい先週も、会社から最寄りの神楽坂駅まで徒歩一分の歩道で同僚とすれ違い、一言二言声をかける程度の十秒以内の立ち話をしたのですが、駅に着いた頃には腕が痒く、プクリとふくれていました。あの立ち話の瞬間に刺されたに違いない。なんという早技!

 人より体温が高いとか、肌から炭酸ガスがいっぱい出ているとか(そういうことが実際にあるのかどうかよく知らないのですが)、蚊に刺されるのは体質的なものがあるようです。そんな知恵がついてくると、何も知らない小学生の頃はいざ知らず、大人になってからは蚊にはだいぶ神経質になりました。怪しい場所、怪しい時間帯では、蚊の存在を確認する前から蚊取り線香を焚きますし、野外に出るときには虫除けスプレーをシューシューかけてから出かけます。なので夏であっても蚊に刺されるのはせいぜいワンシーズンの累計で一桁台の数になりました。それでもたまに蚊に刺されることがあります。そんなときには「スキありッ!」と敵の竹刀が私の籠手に振り下ろされたような悔しい思いをします。

 先週末から昨日までまた田舎にいたのですが、ここは標高も千メートル近くあり、滅多に蚊も見かけない場所なのです(ちなみに真冬は零下二十度ぐらいまで下がることもあるので、ゴキブリはいません)。庭仕事をするときでも、虫除けスプレーをしそびれることがあり、それでもまず刺されることはありません。スズメバチを筆頭に、ハチも様々な種類が飛んでいますし、トンボもたくさん、カブトムシ、クワガタ、コガネムシ……と様々な虫があちこちで姿を見せているのですが、私にはほとんど実害がないのです。夏なのに虫刺されに気をつけずにすむなんて、私には考えられないほどありがたい場所でした。

 ところが、一昨日、涼しい風が吹き始めた夕方に、ちょっと油断してしまったのです。日差しも弱くなったし、気持ちのいい風も吹いているし、芝刈りでもしようか、とふと思い立ってしまったのが運のつき。庭仕事をするつもりではなかった日暮れ時だったので、ショートパンツにショートソックス、Tシャツという素肌がムキだしの状態でした。なんとなくお気楽に鼻歌まじりで芝刈り機を押し始めたら、だんだん夢中になってしまい、汗をかきかき作業が次第に本格化していきました。一度、右腕に黒っぽい蚊のようなものが止まったのがわかったので、ぱちんと叩いたら私の血を少し吸っていたらしく、つぶれた黒い虫からは赤い血がはみ出していました。

 小一時間、結局大汗をかいて満足のいく芝刈りを終えたところで、私は自分の両足の膝下を見てギョッとしました。何カ所も虫に食われている。それも赤茶色の小さなポツポツを残して。たぶんこの赤茶色のところから血を吸われたのだと思います。どうも蚊ではないような気がします。とにかく虫刺されの薬をたっぷり塗って、その日は就寝しました。ところが、翌朝起きてみたら、両足がでこぼこになって、真っ赤に腫れ上がっていました。足首のあたりも、ねんざでもしたかのように脹らんでいる。

 最寄りの薬局でその足の状態を見てもらったところ、「あー、これはブユだね。お客さん東京の人? だったら免疫ができてないから、これだけ腫れちゃうんですよ。地元の人だと免疫があるからこんなに腫れないんです。まずね、この薬を塗ってください。それから腫れがなかなかひかないようなら、薬を塗った上から湿布を貼ってもいいですよ」と、一目見ただけで診断を下し、私は言われるままに薬を塗り、湿布を貼って、その足で昨晩遅く東京に戻ってきました。

 娘が数えたところ、刺されたのはちょうど二十カ所。ショートパンツから露出していた膝下ばかりがやられていました。昨晩は歩いたり立ったりするだけでも痛いほどでした。赤く腫れた部分は、真っ赤に熟したイチゴを潰して貼り付けたような状態です。両足全体も熱いお湯につかった後のように、薄いピンク色。今日はジーパンで会社に来ていますから、両足の惨状は誰の目にも見えませんが、夏休み明けの私は、実は今現在そんな状態です。

 手元の「大辞林」によれば、「ぶゆ【蚋〈蟆子〉】 双翅目ブユ科の昆虫の総称。体長二~八ミリメートル。ハエに似るが小さい。体は黒または灰色。はねは透明で大きい。雌の成虫は人畜に群がって吸血し、疼痛を与える。アフリカではフィラリアなどの媒介虫。幼虫は清流にすむ」とありました。「疼痛を与える」というくだりに「そのとおり」と深く頷きます。さらにインターネットで調べたところ、西アフリカでは合併症しだいによっては失明する場合もある、と書いてありました。

 これからは田舎での夕方の作業はくれぐれも気をつけねば。私の血を栄養にして、これから産卵するであろう雌の子どもたちが、さらにまた私を狙ってくる可能性大です。田舎での私の虫対策を根本的に改革せねばなりません。田舎の自然、あなどれず。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)