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 黒澤明の憤激
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 立て続けに黒澤明の映画を見ていた時期がありました。1970年代前半、もう30年以上も前の話です。入学したばかりの男子高がつまらない。何もかもがくだらない。あーいやだと思いながら暗い映画館に逃げ込んで、椅子に座り映画の世界に身を浸していると、やっと息がつけるようでした。さすがに学校を抜け出して映画を見る勇気はありませんでしたが、日曜日になると銀座や池袋の名画座にでかけていました。

 1970年は黒澤明の還暦の年です。初のカラー映画「どですかでん」封切り後、黒澤明は長い沈黙の時期に入ります。71年12月には自殺未遂。日本の映画界への不満や黒澤プロの赤字問題、創作意欲の行き詰まりなどが取り沙汰されたようです。実際にこの後、黒澤明はいったん日本映画界を離れ、ソ連の申し出を受けるかたちでソ連資本の映画「デルスウ・ウザーラ」の製作・撮影に入ります。

 私が高校生のときに買ったキネマ旬報の増刊号「黒澤明ドキュメント」(キネマ旬報社1974年5月刊行)に掲載されている黒澤明へのインタビューには、その前後の事情をかなり率直に語っているところがあります。おそらく「デルスウ・ウザーラ」のクランクイン前に帰国したタイミングで行われたインタビューではないかと思われます。(「佐藤」とあるのは佐藤忠男氏、「白井」は白井佳夫氏、構成は嶋地孝麿氏です)。

 佐藤 「デルスウ・ウザーラ」というソビエト映画を撮ることになったわけですが、いま日本で映画を撮ることは、とても無理ですか。 黒沢 「どですかでん」を二八日間で撮って、あれだけ安く上げて借金が残るわけだからね。ぼくだって食っていかなきゃいけないわけだから。いま一億円かけたって、なかなか回収できないでしょう。とくに東宝みたいな計算の仕方をされたら、黒字になるのは奇跡ですよ。でも、ぼくは奇跡を三つやっているわけだよ。「用心棒」「椿三十郎」「天国と地獄」この三つだけは東宝がどんな計算の仕方をしようとも黒字になった。ほかは全部赤字ですよ。東宝にあるぼくの借金は大変なものだ。これじゃどうしようもないね。とくに自分がつくりたいものは金がかかるし。やっぱり物の考え方がおかしいと思うんだ。首脳部は、ガッと金をかけて、そのかわりバンと儲ける。そうじゃなくて、なるべく金をかけないようにして、少しでも儲けようとする。 白井 要するに予算はこれしかないからという考え方ですね。 黒沢 それは絶対だめなんだよ。「七人の侍」を撮ったときも、あとで、あれを予算どおりにいったら、もっと儲かったと、こういう考え方をするわけね。雨の合戦のシーン、あれは、一〇日たらずで撮ったんだけど、あんなに短い期間で撮れたんだから、もうひとつ、こういうものを撮ってくれ、という話があった。冗談じゃないといったんだ。一年以上かかって、土壇場にきて、スタッフも死にもの狂いでやった一〇日間だよね。そんなバカ力は出やしないよ。そういう逆算の仕方をする。全部そうですよ。それで「七人の侍」は、あんなにお客が入ったでしょう。あれは予算オーバーして、それだけおもしろくなっているから入ったんですよ。向こうの言うように撮っていたら入らないよ。入っている映画は全部そうですよ。予算オーバーして、その分だけおもしろくなっているから、お客が予想以上に入る。

 後に「スター・ウォーズ」の原型として語られるようにもなった「隠し砦の三悪人」は1958年に封切られ、当時の配収が3億4000万円に及ぶ大ヒットとなりました。しかし、筈見有弘氏による「黒澤明年譜」(「黒澤明ドキュメント」所収)によれば、「撮影日数の大幅な超過、製作費の倍額に近い膨張(当初九千万円の撮影実費でスタートしたが、結果としては一億五千万円になった)は、会社の統制を乱すものとして、黒沢および藤本真澄製作担当取締役は、進退伺いを提出せねばならなくなった。その結果、両者協議の上、株式会社黒澤プロダクションを四月から発足させることになった」という経緯があったらしい。

 そして、黒澤プロダクション設立後に撮った映画が、「悪い奴ほどよく眠る」(1960年)「用心棒」(1961年)「椿三十郎」(1962年)「天国と地獄」(1963年)「赤ひげ」(1965年)。黒澤映画のピークがここにあるといっていいでしょう。「黒澤明年譜」によれば、「黒沢プロができたら早速、もうけのための写真を作った、などと言われるのもシャクでね。いちばん難しいものに取り組んでやろう、と思った」というのが「悪い奴ほどよく眠る」。あらためてこの時期の作品を思い出してみると、登場する映画の主人公たちは、つねに何らかの状況下に追い込まれ、思い詰めているように見えます。思い詰めるからこそ異様な迫力が漂う。黒澤明が毎回背水の陣で監督をしていた気持ちが、画面の向こう側から滲み出してくるかのようです。

 汚職事件の生け贄となって死に追いやられた父の、無念の思いをはらす息子の復讐劇「悪い奴ほどよく眠る」。貧困のどん底にある患者たちからは治療費はとらず、バカ殿や豪商からは高額の料金をむしり取る「赤ひげ」。進退の瀬戸際まで追いつめられた老舗靴店の重役の、最後の命綱とも言える大金が身代金にとられる「天国と地獄」。お金をめぐる切実な闘いが、様々にかたちを変えて変奏されている、と見えなくもない。そしてそのような状況に自分が追いつめられてしまったことへの憤激。完全主義者、黒澤天皇と畏れられ、世評もピークに達していたときであっても、黒澤明のこころには、溢れるほどの憤激が渦巻いていたのではないでしょうか。

「赤ひげ」封切りの後、1967年に20世紀フォックスと黒澤プロによる「トラ・トラ・トラ!」の製作が発表されるものの、二年後には決裂し、黒澤明はこの映画から降りることとなります。その翌年に封切られたのが、前述のインタビューで「二八日間で撮った」という異例の作品「どですかでん」。「黒澤明年譜」によれば、「どですかでん」について黒澤明はこう語っています。「今度の映画では、スタッフを決してドナラないことにしたんだ」「脚本を読んだかぎりでは、非情で残酷なもののように思われますが、これを煮つめ、突きつめていって、そのような残酷さ、非情さをのりこえた人間の尊さ、哀しさ、美しさ、面白さを出していきたいと思っているんです」。

 黒澤明の自殺未遂を報じた新聞を読んだとき、唐突な印象がありました。しかし当時の映画界、そして黒澤の内面を年譜的にたどっていくと、黒澤の憤激が手に取るように伝わり、そこまで追い詰められるに至った心情が痛いほど理解できるのです。そして同時に、「憤激」というものが芸術家に与える力の大きさも見えてきます。黒澤映画の異様なまでの迫力がいったいどこから来るのか。演出術だけでは説明のつかないもの。それは案外、世俗的なものからやってきたのかもしれない、と思わずにはいられません。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)