気鋭の脳科学者・茂木健一郎さんには、どうしても会いたい人がイギリスにいる、と言うのです。茂木さんをインスパイアしてやまない3人の科学者。それは確かに「心と脳」研究の最前線を訪ねる旅となりましたが、同時に、科学という分野にとどまらない、考え続ける人間の美しさと、それを生む土地の奥深さへの「巡礼」の旅ともなったのでした。

 脳は単なる物質です。1000億と言われるニューロン=神経細胞からなる約1リットルの有機体です。微弱な電流が流れ、血液が酸素を運ぶ、つまるところわれわれの体にある器官のひとつです。ところが、そんな「物質」に「意識」やら「心」が発生する……。茂木健一郎さんは、脳は確かに物質だけれど、クオリアという概念を通して考えれば、脳から心が生み出される過程も科学的に解明できるのではないかという立場から、この古いと同時に最先端でもある「心と脳のサイエンス」に挑み続けています。

 その茂木さんに、「考える人」で心と脳の特集を組もうと思うのですが、と相談したとき、まっさきに挙がった名前がロジャー・ペンローズ、世界的な天才物理学者でした。スティーヴン・ホーキングとの共同研究でブラックホールの存在を理論的に証明し、ツイスター理論の発表、量子重力理論の研究などで巨大な評価を得たのち、著書『皇帝の新しい心』で意識の成り立ちを考察し量子脳理論を展開……。同じ人間だとはわかっているけれど、圧倒的に雲の上の存在、としか思えない大・大科学者に、イギリスまで行ってインタビューしてこようよ、と気軽に茂木さんは言うのです。

 思えば茂木さんはケンブリッジ大学に留学していました。脳研究の最前線で、日々知見を新たにしては、多くの知己を彼の地で得ていました。

ダーウィンのひ孫でもある神経生理学の泰斗ホラス・バーローもそのひとりです。ロンドン大学教授で、人類の「意識」の進化について大胆な仮説を唱える進化心理学のニコラス・ハンフリーはケンブリッジに住んでいます。オックスフォード大学の名誉教授であるペンローズとも、特別講義の際やってきたケンブリッジで会っています。知性とはなにか、というこの上なく大きな問いに、正面から取り組もうとしているペンローズ。イギリスの伝統的な知の最良の部分を代表するバーロー。複眼的な視点から、人類全体の「魂」を探ろうと果敢に試みるハンフリー。この3人の世界的科学者に、「イギリスに行けば会えるじゃないですか」と言うのです。

 こうして始まった「ケンブリッジ、オックスフォード巡礼」。自ら台所に立ちお茶を入れてくれたハンフリーは、近所の植物園や日々耕しているという菜園を案内してくれ、考えることと生活することが一体になっているその生き方の一端をかいま見させてくれました。素晴らしく手入れされた庭が目を引く瀟洒な一軒家に住むバーローは、84歳というのに、愛弟子「ケン」を出迎えるのにアイディアをいっぱいに書き留めたノートを用意して待っていました。そして、ペンローズは、その世界的名声にもかかわらず、誠実で紳士的そのもの。ところが、インタビューの最中、「実は、新しいアイディアを昨日思いついたばかりで」と言うと、突然立ち上がって、オックスフォードの数学研究所の黒板に熱心に図を書き始めるのです。

 3人に共通していたのは、考え続けることと生きることの調和、そのたたずまいの美しさでした。いずれも飾らない人柄の、それでいて相手を気遣うことを忘れない心優しき現代の「4人の」知性が繰り広げた、刺激的かつ丁々発止のインタビューの様子は、是非本誌で。茂木さん自身が渾身の力で執筆した記事は、きっと悠久の知への「巡礼」へと誘ってくれることでしょう。

特集「心と脳」をおさらいする
P.70-71の記事の撮影者クレジットに誤りがありました。