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 雨戸
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 大正時代に建てられた平屋の日本家屋で朝から晩まで秋の一日を過ごしました。仕事の関係で訪れていたので、のんびりと滞在していたわけではないのですが、気がつくと昼寝をしたくなるゆるんだ気持ちになっていました。縁側に腰をかけて靴脱ぎの石の上に足をあずけていると、頭はしだいに「何も考えず、秋の日に照らされている自分の足先を、ぼーっと眺めている」だけの状態に。秋の日差しがうっとりするほど気持ちがいい。

 庭に面して和室がふたつ並んでいます。和室と庭にはさまれるようにして東西に長く縁側がのびている。これも日本家屋の定番です。私も小学校の一年生までは同じように縁側のある家に住んでいました。庭に面した側にはガラス戸が、部屋の側には障子が引けるようになっているのも同じです。大正時代に建てられたという家は縁側が黒光りしていて、秋の日差しの熱を吸収し、腰かけているとお尻のあたりがじんわりとあたたかくなります。

 縁側に面した東側の和室には床の間。床の間の左側には奥行きのある棚がしつらえてあり、古い置き時計がぽつんとうずくまるように置いてありました。針をみると止まっている。床の間にも何も掛けられていません。部屋の真ん中に座卓が置かれているだけです。部屋の北側は、庭に面した南側と同じく障子があり、廊下があり、ガラス戸があり、その向こうに小さな中庭があります。中庭には椿が植えられて、地面は苔がむしている。すべての障子やガラス戸を開け放てば、部屋に漂う空気は外気と同じです。昼であれば、部屋はだいぶ明るい。もちろん電灯を点ける必要はありません。

 ふたつの和室は襖で区切られていますが、襖を開け放てばふたつの和室は大きなお座敷に広がります。ざっと見渡しただけでも、三十人以上の人が長く繋げられた座卓にゆったりと並んで坐ることができそうです。新年会を開く光景が目に浮かんできます。縁側に面した障子がすべて閉められていても、障子は猫間障子なのでその小さな戸を開ければ、冬枯れた庭の光景が向こうに見えるはず。新年会の途中で厠に席を立ったとき、縁側の向こうに誰も見ていない冬の庭がガラス戸の向こういっぱいに広がったでしょう。

 ふたつの部屋を仕切る襖を閉めても、天井の側にある欄間越しに光も空気も音も行き来します。日没後、こちらの部屋の光を消しても、細い格子越しに隣の部屋から灯りがこぼれてきます。天井際の薄赤い光は何か夢のような色合いで、隣と繋がっている光なのに、もっと遠くから届いたような、はかなく非現実的な気配をおびている。欄間越しに聞こえる人の声も聞き耳を立てなければ意味をなさないくぐもった音にしか聞こえません。欄間を見上げる角度は、子どもの頃には遙か上空の高さに思えたものです。ふだんの私たちの暮らしにはなくなった視界が、忘れていた記憶を呼び覚まします。

 ドアをぴったりと閉めれば、個室は完全なプライベートな空間になってしまう西洋式の住宅とは違って、日本家屋は光も音も静かにもれていく。ただ不思議だったのは、いったん襖なり障子なりを閉めてしまうと、内側にいる人間には籠もっている感覚、包まれている感覚が生まれてくることです。また障子の閉められた外側の廊下に立っていると、簡単には開けられない気配が、向こう側から圧力のように押してくる。そっと廊下に立ったまま聞き耳を立てれば部屋の話し声は聞こえるかもしれません。しかし部屋の中にいる人にとっても、息をひそめた人間が外に立っていればその気配に気づく可能性はきわめて高い。完全に遮断しないことで、かえって緊張感が高まるのかもしれません。

 日本家屋は五感を研ぎ澄ませます。外側と内側がいつも反応しあう構造になっている。風がとおっていく。庭の枯葉の匂いも部屋に漂ってくる。外気温が下がってくると部屋の温度も下がる。しかし不思議なことに、縁側に面したふたつの和室のさらに西側に続く小さな和室にいるはずの人の気配はまったく伝わってこない。北側の廊下のL字型になった曲がり角の向こうの台所で働いている女性に声をかけるときは、よほど大きな声を出さないと、声が届かない。隣り合う距離なら届く音も、ちょっと離れると何かに吸収されてしまったように音は失速するのでしょうか。石やコンクリートで出来た家のような音の反射がないのかもしれません。

 日が沈み、庭側と北側の雨戸が閉められます。大量の雨戸が戸袋から続々と姿を現し、メンテナンスがしっかりしているのか、建て付けが驚くほどよいために、すべるようにすいすいと雨戸が縁側にそって流れていきます。そしてあっという間に外と内が遮断されます。それまでは外に漏れ放題だった光や音が行き場を失って、部屋の中に閉じこめられます。雨戸を閉め切った家のなかの驚くほどの密室感。何かに守られている感覚。昼間は外にいるのとほとんど変わらない感じだったのが、今はまったく別の部屋にいるような空気と入れ替わっている。大雨が降ろうが風が吹こうがびくともしない感じ。さらに障子で仕切ってしまえば、音もあまり聞こえないのではないか。

 玄関でヘビが死んでいることがあったそうです。天井や縁の下で小動物が子どもを産んだり育てたりもするらしい。完全に締め切っても、小さなものであれば入りこめる余地がある。その日は朝から夜まで晴天でしたが、雨の日や雪の日はいったいどんなだろうと思いました。庭に出ることのない悪天の日に、一日部屋で過ごすときの時間の流れ方。湿度や温度が刻々と変わっていく感じ。音。匂い。

 人間の感覚が変われば、人間の関係も変わってくるはず。こういう家に住んでいると、場面によって、時間帯によって、声のトーンもいろいろ変わってくるだろうと思います。ささやくぐらいの声がふさわしい場合もあれば、裂帛の気合で叫ぶのがふさわしい場所もありそうです(四畳半ほどもある立派な玄関あたりは、三和土から数えれば四段分も段差があり、その高低差から降りてくる大声もささやきもそれぞれ迫力が出そうです)。

 障子もガラス戸も開け放たれた畳の上にごろりとなり、天井を見上げながら隣でおなじように横になっている人に話しかける感じは、いまはほとんどないと思います。縁側の雑巾掛けと、裸足の感覚。木の匂い。たった一日いただけのことでしたが、自分から失われている感覚が、つぎつぎと繰り出してきて、何十年と活動を停止していたシナプスにスイッチが入っていく。そんな感覚がつぎつぎとやってくる、不思議で新鮮な一日でした。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)