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 号泣
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 今朝、起きたらからだの芯がぐったりとしていました。背骨の奥のほうが、じーんとだるくなっているような、後頭部から背中にかけての神経がいっせいに逆立っているような、そんな感じ。目が覚めた瞬間にありありと覚えていたのは、夢のなかで号泣していたこと。自分の嗚咽で目が覚めたかと思い、まだ反応の鈍い手で目のあたりを触ってみたのですが、指先は濡れませんでした。それなのに、これほどはっきりと泣いた後の感覚が残っているのが不思議です。

 なぜ号泣したのか理由は思い出せません。右手で紺色のハンドタオルをにぎりしめ、次から次へあふれてくる涙をぬぐいつづけていたことばかり覚えています。場所は電信柱が立っている路地の片隅のような、あるいは天井の高い大きな屋内空間にある味気ない通路のような。そういえば、昔一度だけ行った大きな撮影スタジオが似たような雰囲気でした。薄暗い、空気がひんやりとした場所。自分以外には人影はありません。

 とにかく泣きかたが尋常ではなかったのです。あられもなく声をあげて泣いている。人に聞かれようが見られようがかまわない、おんおん、おうおうと、喉の奥深くから抑えようもなく動物的な声が引きずり出されます。自分の意志とは違うところからつぎつぎに発生する嗚咽がさらに刺激となって、体温をたっぷりと含んだ涙が大増産され、ハンドタオルはみるみる湿って、顔はびしょびしょ、目も腫れぼったくなってゆく。空気の振動としての鳴き声と、骨から伝わる振動としての鳴き声が二重になって、自分の耳にはおのれの泣き声ばかりがいっぱいに響きわたっていました。

 子どもの頃は泣き虫でした。幼稚園に行きたくないと言っては泣き、運動会で転んでは泣き……ピアノが上手く弾けない、兄弟喧嘩、両親から叱られて、友だちに玩具を壊された、日々は泣き崩れる原因に満ち満ちていました。泣かなくなった時期はよくわからないのですが、たぶん小学校4年生ぐらいから、よほどのことがない限り泣くことを我慢するようになったのだと思います。

 たしか6年生のとき、いじめの大将だった悪ガキのC君が同級生の女の子の耳をひっぱって泣かせたため、隣のクラス担任だった中高年の女性教師に「こうされたら、どうだ?」と強く叱責されながら耳を引っぱられ、おそらく痛みと情けなさと無抵抗のせいでわんわん泣いている姿がありました。「6年生にもなって泣いてる……」とちょっと冷ややかな気持ちも混入しつつ、女性教師の容赦ない態度と泣き叫ぶC君の無防備な様子を呆然と見ていたことを覚えています。

 大人は泣かない。男は泣くもんじゃない。泣くとしても声を立てずに泣け。号泣のハンドブレーキはいつしかしっかりとかかるようになっていました。もちろん涙が出ることはあります。でも声をあげながら、はない。大人になって声をあげて泣いたのは、記憶では三回だけです。一回は葬式で、もう一回は飲めない酒を飲んで悪酔いし、ある作家の別宅にふとんを敷いてもらい泊まり込んだときに。あとの一回は飲めない酒を飲んで自宅で見ていた映画の、ある場面にさしかかったときに。葬式は別として、意識のコントロールができない場面でしか、号泣はしていません。

「泣ける小説」「泣ける映画」と最近よく言われます。我を忘れるような情動を抑えるのが大人であり、抑制する力を持つ大人で構成されるのが社会だとすれば、号泣は念入りに蓋をされ、ひもでくくられて、無意識という名の押し入れの奥のほうにぐぐーっとしまい込まれている。その状態が、いつの間にか子どもではなくなっていた私たち大人の日常生活というものなのでしょう。しかし抑圧されればされるほど、表に出るタイミングを虎視眈々と狙っているのが無意識というもの。だとすれば、映画や小説で無意識を小出しにしておくことも、大人が健全なかたちで無意識を管理する方法なのかもしれません。

 ところが夢という装置、仕掛けによって、押し入れの奥のほうから「号泣の壺」が引きずり出され不意打ちに蓋を開けられてしまうこともある。それが今朝の出来事だったのでしょうか。しかし何で泣いたのか、やはりどうしても思い出せません。もう起床からだいぶ時間が経って、お昼どきになっているのに、からだの芯にある泣きはらした感覚はまだ薄ぼんやりと、しかしはっきりと残っているのです。


「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)