人間の心のありかを解き明かそうとしてきたのは、脳の専門家ばかりではありません。人が人の営みのひとつとして芸術や哲学を見出したときから、その時代その時代に、おのおのが限界を超えて考え、表現してきたのです。それが、心をめぐる私たちの理解を推し進めてきたのは間違いありません。そして、それはいまも続いているのです。小説家の保坂和志さん、芸術家の内藤礼さん、社会学者の鶴見和子さん。今回は、この三人の方々に登場していただきました。

 保坂和志さんは、小説家による小説論、『小説の自由』を上梓されたばかりです。小説とは何か、書くということはどういうことなのか、を常識的だと思われているような前提を取り外して、言葉や小説のふところに潜り込み、鮮やかに取り出してくる保坂さんは、『小説の自由』のなかでこう書いています。──「小説は、読んでいる時間のなかにしかない。読むたびに、『世界』や『人間』や『私』について、新たな問いをつくりだすもの、それが小説なのだ」。

 保坂さんは、意識や心とは何かという問いから、脳をめぐる本を濫読していた時期がありました。しかし、「脳が脳たりえている肝心のところがいっこうに見えてこない。脳はただ解剖学的な地図とそこを流れる化学物質を解明するだけでは脳たりえず、脳を脳たらしめている“何か”がなければ脳としての活動が起こらない」という思いにたどり着き、脳に対する興味を失ったと書いています。そして意識や心の成り立ちへの強い興味は、「小説を小説たらしめているもの」を考えることの代償行為だったのではないかとも。

 しかし保坂さんの問いかけは続いています。「『小説を小説たらしめているもの』という設問は、『意識とは何か』という設問と同じだけ解きがたいけれど、それぞれのジャンルにいる人間がいっせいにそれを考えようとすることが、全体として何かブレイクスルーを生み出しうるのではないか? ──というのが、いまの私の居場所だ」。

「私が美術作品をつくる理由というのは、地上に存在していることが、そのこと自体で祝福なのかどうかを知りたい、というひとつのことなんです」と言う芸術家の内藤礼さんにとって、「私とは、心とは何か」という問いは、どこへ向かうのでしょうか。そして、約十年ほど前に脳出血に倒れ左片麻痺となった社会学者の鶴見和子さんは、「倒れた夜から、半世紀もつくっていなかった歌が湧き上がるように生まれてきました」と言い、「五感も鋭敏になって虫や花など自然を自分と近いものに感じ」る世界で、自分の人生を新たに生きなおすような感覚を得ています。右脳の一部を損傷し、機能を喪失することで、なぜこれだけ「獲得」するものが溢れ出てくるのでしょうか。

「心と脳」へのアプローチは、様々な方法と切実さがあるのだということを、この三人の方々の言葉から強く感じていただけるのではないかと思います。