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 庭
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 先日、奈良県にある河合隼雄さんのお宅にうかがいました。京都駅で近鉄に乗り換えてさらに小一時間ほどかかる場所に河合さんのお宅はあります。文化庁長官時代、京都にも分室があったと聞いていますが、文化庁の長官室は東京にあります。関西に自宅があって東京との間を行き来する感じというものはどういうものなのか、東京に住んで働いていると、なかなか実感はわきません。

 しかし、亡くなられた後になって初めて、河合さんのご自宅にうかがってみると、どれだけ遠かったのかがひしひしと実感されます。小林秀雄賞の選考委員として選考に臨まれた日は、選考が終わった後で他の選考委員の方々と一緒に夕食をとっていただき、記者会見や会場にかけつけてくださった受賞者との懇談があります。しかし9時頃になると河合さんは担当編集者にうながされて東京駅に向かいます。

 いま時刻表で調べてみると、9時すぎの新幹線に乗ると、ご自宅の最寄りの駅に着くのは午前零時をまわってしまいます。京都にも仕事場をお持ちでしたが、ご自宅にお帰りになる、となれば午前零時すぎ。まったくうかつなことでした。河合さんは「家に着くのが午前零時をまわってしまう」というような言葉を口にされることはありませんでした。当時のことをふり返ると、こちらが気を利かせて、一時間でも早く東京駅にお送りするというやり方もできたはずでした。

 ご自宅におうかがいしたとき、私が自宅を出たのは6時頃、最寄りの駅に到着したのは午前10時前でした。駅を降り、商店街を横に見て、まもなく住宅街に入ります。しばらくすると、左側がずっと土塀の続く道になり、東京ではほとんど見かけないような「やはり奈良、京都の町並みだな」と思われる雰囲気があたりに立ちこめてきます。深夜であれば、ほとんど人通りもなく、しんと静まりかえっているに違いない。コンビニエンスストアも自販機もなく、ぽつんぽつんと街灯だけが立っている様子から考えると、かなり暗い道なのだろうなと想像されます。

 河合さんのお宅は、平屋の日本家屋でした。もしも表札がかかっておらず、特に目的も認識もない状態でその前を通り過ぎたとすれば、おそらく誰も、文化庁長官のお宅であると気づく人はいなかったのではないかと思います。それぐらいひっそりと、普通の顔をしてたたずんでいる家でした。どこか懐かしいような気持ちもわいてくる。小学生の頃、よく遊びに行った友人の家に、どこか似たところのある家でした。

 玄関からなかにあがると、さらに懐かしさが強くなります。畳の座敷に続いて縁側があり、ガラス戸の向こうに庭が見えます。お宅におじゃましたのは、この庭を撮影させていただくことがおもな目的でした。話には聞いていたものの、実際に目の当たりにすると、小さな声がおもわず出てしまうような、なんとも素晴らしい庭でした。

 平屋のご自宅と同様に、庭じたいもけっして広大ではありません。しかし庭師がしかるべき設計をして、こまめに手入れをしなければこのようにはならないという庭です。昭和30年代の日本の一軒家が持つ平均的な庭面積、というような統計がもしあったとすれば、その平均値に限りなく近いのではないか、と思われる規模のなかに、小さな宇宙がある。

 こぶりの松があり、小さな石の塔があり、飛び石があり、つくばいがあり、スギゴケにおおわれた小さな低めの築山風の盛り土があります。縁側に腰をかけると、庭のすべてが見渡せて、しかもすっぽりと囲まれたような感覚におそわれる。ずっと眺めつづけていてもいっこうに飽きることのない、見事な庭でした。

 河合さんはいつも冗談を言ってその場をなごませる名人でした。ところが、ご家族のことなどプライヴェートなことは今思えば一度もお話になりませんでした。自伝『未来への記憶』(岩波新書)のあとがきに、家族のことについては詳しく書かないということについて、「プライヴァシー」という言葉を使ってさらりと触れられていることに、先日あらためて気づきました。

 臨床心理にたずさわることに伴って、ある倫理のようなもの、守らなければならないもの、が河合さんのなかには第三者に説明するまでもないかたちであったのだと思います。その同じ延長線上に、河合さんご自身のプライヴァシーについてのお考えが、ほとんど身体感覚に近いものとしてあったのではないでしょうか。

 縁側に座り、この庭を見ていたであろう河合さんの姿というものは、こうしてお亡くなりになった後で、初めて想像することになりました。それまでは、私たちのなかに存在しなかった「イメージ」です。そして、ご自宅に向かう道を深夜ひとりで歩かれる河合隼雄さんの姿も。

 私たちはまだ河合隼雄さんのほんの一部しか知らない。奈良のお宅にうかがって、河合隼雄さんの残された「宇宙」が、音もなく広がってゆくのを感じました。次号の特集「さようなら、こんにちは 河合隼雄さん」の編集作業を始めながら、日暮れて道遠しの気持ちがいま深まっています。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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