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 「雑誌とは何か」
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 今日は新入社員のみなさんの前で「雑誌とは何か」について話をしました。思い起こせば私も入社して二日か三日した頃に、同期の仲間と一緒に「出版とは何か」について話を聞かされました。社長室の隣の、なんとなく敷居の高い感じのする「第一会議室」の長いテーブルを前にして、少し緊張しながら座っていたことを覚えています。

 私たちに話をしたAさんは数年前に亡くなりました。私が入社した当時の、出版部と月刊誌を取り仕切っていた役員で、短髪でギョロリと見据える目に特徴のある、気むずかしい表情の人でした。「あ、役員面接で質問をしてきた人だ」と顔を見てすぐに思い出しました。採用試験は一次、二次と面接があり、最後が役員面接です。役員面接の雰囲気は、何ともいえない重苦しいものでした。

 六、七人の役員が長いテーブルの向こう側に並んで座っていて、目の前には書類の束が置かれています。書類は、履歴書、一次面接の結果、二次面接の結果が綴じられているもの(○とか×とか◎とかが見えたので、それとわかります)。それをパラ、パラ、パラとめくって、ときどき、ちら、ちら、とこちらを見ている。質問はほとんどなく、長い長い沈黙がある。なんだろう……こりゃだめだ、こんなヤツを上にあげてきたのは誰だ、ということかな。

 その沈黙を破ったのがAさんでした。A「きみは翻訳の出版をやりたいそうだけど、翻訳の何をやりたいの?」私「はい、海外文学はもちろんですが、ニュージャーナリズムのような海外の新  しいノンフィクションも紹介できればと思っています」A「……あのね、翻訳モノっていうのは売れないんだよ。知ってるかね。売れな  いものを作ってどうすんだい?」私「……」。

 Aさんの質問に答えられず、私は「あー、これで落ちたなー」と思いました。しかし部屋を出て、しおれた気持ちで控え室に戻って待っていると、唯一、助け船的な質問をしてくれた役員が現れて、別室に連れて行かれ「君は内定ですから、そのつもりでいてください」と言われました。私は当時、別の出版社でアルバイトをしていて、アルバイト先の編集部に戻って、そこでお世話になっていた編集者のBさんに新潮社に内定したことを伝えると、それを聞きつけた女性編集者が「Bさん、松家さん新潮社にいかせちゃって大丈夫なの?」と言うのです。B「え? 何言ってるのさ、大丈夫だよ」。女性編集者の声のトーンと、なんとなくばつの悪い顔をしているBさんを見て、頭のなかにはあやしい黒い雲がたれこめてきました。

 開高健さんが、何かのエッセイに「生き馬の目を抜く矢来町の出版社」と書いていて、代表作ばかりではなく作品集も出して浅からぬ縁のある新潮社なのに(だからこそ?)、そのように冗談めかして書いていることにはいろいろな思いが込められていたに違いないのですが、私は「出版とはなにか」を語るAさんの話を聞きながら、「そうか、これが生き馬の目を抜く、ということか」と腑に落ちる思いでした。「きみたちは知らないだろうけどね、作家というのはね……」。

「会社はね、5年間はね、ひたすらきみたちに投資するだけで、見返りは一銭もない。そのことは覚えておいてほしいな。そして、いろいろ経験して学んでもらって、5年たったら、しっかりと会社に貢献して稼いでもらう。そういうことなんだよ。わかるかね。あ、それからね、きみたちは30歳までは結婚できないよ。忙しくてそんな暇はないんだ。編集者の仕事っていうのはそういうものなんだ。そのつもりでいてくれよ」

 私が配属された月刊誌の担当役員はAさんでした。いろいろな意味で強烈なキャラクターだったAさんとの、一筋縄ではいかない仕事上のやりとりには数え切れないエピソードがあるのですが、そしてAさんが今となっては懐かしく、今の自分の仕事について意見を聞いてみたいと思う人の筆頭ではあるのですが……それはさておき。

 新入社員に仕事の説明をするのは、昔のように偉い人ではなく、現場の人間の担当になりました。私に与えられた「お題」は「雑誌とは何か」です。何を話すか事前に考えすぎると駄目なような気がして、項目だけいくつか書き出して、メモをつくりました。一行目に書いたのは「雑誌とは何か、それはわからない」というものです。

 二十何年も会社にいて、いろいろな雑誌の経験をしてきたものの、じゃあ雑誌
って何だとあらためて問われると、「わからない」としか言えない。小一時間を
かけて話をした内容は、そのことをめぐってのものでした。新入社員はどう思っ
たでしょう? 「大丈夫かな、こんな編集長のいる会社で」と思われたかもしれ
ません。私が当時「大丈夫かな、こんな役員のいる会社で」と思ったことが、の
ちにいろいろな変奏となって自分の仕事をかたちづくっていったことを思えば、
「それでいいのだ」と天才バカボンのパパのような気持ちに、あるいは、so it
goes(そういうものだ)というカート・ヴォネガットの小説の文章の末尾のよう
な気持ちになるのですが……うーん、どうだったかな。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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