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 うしろ
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 小学生の頃、友だちの背中は遊びの「宝庫」でした。うしろからそっと近づいていって「ワッ」と背中を叩いて驚かしたり、体育館座りで円陣を組んだ外側を鬼になった友だちが小走りに回りながら、途中で誰かのうしろ側にハンカチをそっと落として気づかれなければ、その誰かが鬼になる「ハンカチ落とし」もずいぶんやりました。「背中がかゆい」と書いたメモ用紙をそっと背中に貼ってみたり、教室で自分の前に座っている友だちの背中に文字を書き、何を書いたのか当てさせたりする遊びも。

 人間の背中は無防備です。四足歩行をやめて直立するようになったことで、私たち人類はからだを支える役割から手を解放して自由に動かせるようになり、道具を使いこなし、大脳を発達させることができました。四足歩行時代の頭蓋骨の形状もゆっくりと変化して、やがて言葉を喋ることができるようにもなった。しかしその大きな代償として、背中が圧倒的に無防備になってしまったのです。無防備であるだけでなく、四足歩行の哺乳類には起こりえない、直立歩行がもたらす宿命的な病としての腰痛も発生するようになったらしい。腰痛持ちの私としては、背骨を地面に平行にして歩く犬や猫の姿をうらやましく見送るばかりです。

 そういえば、立っている人のうしろからそっと近づいていって、膝のうらをグイっと押してバランスを失わせる遊びもありました。立ち上がって全身を支えている脚は、うしろからの「攻め」には情けないほど弱い。直立歩行というスタイルが、まだ進化の途上にあるために、立って歩くことによって起こる問題点が未解決のまま残されている、そう思わざるを得ないような「不備」とともに、私たちは生きている。そう考えたほうがいいのかもしれません。

 猫を見ていると、からだを横たえてリラックスしているように見えても、耳だけがぴくぴくと方向を変えてしきりに音に反応している様子がわかります。私の前を歩いている猫も、こちらをふり返らず耳だけうしろに向けて、危険をもたらす怪しい音が聞こえてこないかどうか、つねにアンテナをはっているのがわかる。四足歩行の生きものであっても、うしろに対する警戒は私たちよりもはるかに強いものがありそうです。

 メキシコに亡命中のトロツキーが、うしろから近づいてくる犯人に気づかないまま、ピッケルを振り下ろされて暗殺されるシーンを映画で見たことがあります。他の場面はほとんど覚えていないのですが、あのシーンだけはなぜか忘れられません。無防備なうしろへと襲いかかる映像は、映像を見ている側が全体を把握できてしまう分だけ一層スリリングになります。だから、サスペンス映画、恐怖映画には欠かせない、映像のパターンのひとつになったのでしょう。

 鏡に映したものでなければ、自分のうしろ姿はどうやっても見ることができません。見ることができるとしたら、それは「臨死体験」のときぐらいでしょうか。登山家のラインホルト・メスナーが冬山を登頂中に遭難しそうになり、生命の危険にさらされながら朦朧とした意識で歩いていたら、幽体離脱が起こり、雪山を歩いている自分のうしろ姿をはるか上空から見下ろしていた、というエピソードがありました。生きている自分のうしろ姿を見る、というのは、なんとなくゾッとしない話です。自分の歩くうしろ姿が私の老いた父親のうしろ姿にそっくりになってきた、と親類に指摘されたとき、私は思わずうしろをふり返りましたが、どうやったって背中は見えない。ビデオに撮って見ればいいじゃないか、と言われそうですが、撮られることがわかったら、ふだんの無意識のうしろ姿とは違うものになってしまうでしょうし、そもそも映像は実体ではありません。

 共同体意識がどんどん薄れてゆく都市生活では、うしろは大丈夫だよと無意識のうちに保障してくれるような、共同体の不文律のレベルがどんどん低下してゆきます。その怖ろしい現実をはからずも明らかにするような、嫌な事件が続いて起こりました。プラットホームに立っているだけで、危険にさらされる可能性がある──となれば、都市生活ほど怖ろしいものに満ちた場所はありません。それでは人はみな、ますますうしろに気を遣いながら生きてゆくようになっているのか、といえば、それはどうもちがうのではないか、と思うのです。

 救急車のサイレンがどこかから聞こえてくる。交通量の多い交差点あたりにいると、サイレンの音が前方からなのか、後方からなのか、右か左か、なかなかわかりにくいことがあります。私はどうであれ、すぐに道を譲ることができるように、車を左に寄せることにしています。ところが、どうしてなのか、車を左に寄せない人が以前よりも多くなってきた、と感じるのです。救急車からはサイレンばかりではなく、「あけてください。通ります」とアナウンスがある。赤いランプも回転している。それなのに、車を寄せようとしない。いったい何が起こっているのでしょうか。

 ひどい場合には、救急車は反対車線にはみ出して進まざるを得ない場合もあります。ひょっとしてカーオーディオを大音量で流しているために聞こえないのでは、と思ったときもありましたが、どうもそうではない。うしろから、救急車がよほど近くに寄ってくると、しぶしぶというように車が動くのです。私が免許をとったばかりの四半世紀前には、救急車がサイレンを鳴らして走る前方は、モーセの十戒のように、サーッと道が開いていたものでした。とにかく今はその反応が遅い。いつからこんなに鈍感になったのか。

 歩道でも同じようなことがあります。立ち話というものは道のどちらかに寄ってするものでした。ところが、歩道の真ん中に立って話をしている。こちらから人が近づいているのにもぎりぎりまで気づかない。書店でも、立ち読みをしたり本の背表紙を追ってみていたりするときに、通路の真ん中あたりにボーッと立っている。そういうふたりがほとんど背中合わせで通路に立っていたりすると、とうせんぼをされているのと同じ状態です。向こう側にも行くに行けない状態になってしまう。

 なんだかうしろが見えていないのではないか。とにかく自分の前、180度の世界だけが広がっていて、うしろの180度の世界はなきに等しい。もしそうだとしたら、どういうなりゆきで、私たちの感覚がそのようにかわってきているのか。

 私は臆病ですから、人一倍うしろを気にするタチです。車を運転するときも、うしろが気になってしかたがない。ときどきバックミラーを見て後続車の状況をチェックするのですが、高速道路ではこの傾向に拍車がかかります。遙か後方を走っていると思っていた車がぐんぐん近づいてきて、こちらをあおり、道を譲るように迫ってくる。よくある光景ですが、私の場合うしろからあおられるのが心底きらいなので、なるべく早くに手を打ちたい。だからこそ、バックミラーのチェックを怠ることはありません。

 もの凄いスピードでわたしをあおる車の運転手は、たぶん自分のうしろをそれほどは意識していないのでしょう。前へ前へという意識ばかりが肥大化して、うしろには使用済みの空間だけが残されてゆく。そのような日常の意識のありかたを肥大化させてゆくと、歴史とは何か、という意識も怪しいものになってくるのではないか。とつぜん話が飛躍するようですが、そんなことを考えたりもします。

 かといって、私のようにうしろばかり気にしていると、なかなか運転を楽しめません。高速道路を1時間、2時間と走り続けると、へとへとになってしまう。だからときどき信号で足止めされる一般道は、私のようなタイプの運転手には、休息にもなり、考えごとをする時間にもなり、うしろの車からプレッシャーをかけられることもなく、街路樹のまぶしいばかりの緑をめでる余裕も生まれてきます。

 連休は車で遠出をするのではなく、いまが盛りの若い緑の葉を散歩しながら楽しむのもいいかもしれません。耳に入ってくる音や風を感じ、ゆっくり歩く。ときどきうしろをふりかえりながら、人のじゃまにならないように気をつけて。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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