60年代の初頭は、日本のデザインに大きな転換があった時代です。
 まず日本デザインセンターの始動、次に日本初の世界デザイン会議の開催、そして64年に開催される東京オリンピックの公式シンボルマークの指名コンペ。
 この三つのいずれもで主要な役割を果たすのが、亀倉雄策でした。

 亀倉雄策といえば、戦後日本デザインを創成した大御所。上記三つのほかにも日本宣伝美術会=日宣美の創立(30代半ばで!)、1967年大阪万博オフィシャルポスターを手掛け、78年には日本グラフィックデザイナー協会(JAGDA)の初代会長となり、国内外の数え切れないほどの受賞など、その業績は枚挙にいとまがありません。

「広告には、その企業の理念が反映されていなければならない」
「企業のトップともつきあい、……逆に企業イメージなり、商品イメージを作ってあげる。そうしたプロセスを経て、はじめてデザイナーの仕事が成り立つ」
 今でこそ当たりまえのように思われる、消費社会におけるイメージ戦略や、企業理念とデザインの関係ですが、当時の日本は「デザイン」の概念が判然としなかった時代。亀倉さんは天才にして巨匠であることはもちろん、ひとつひとつ階梯を築いて、社会にデザイナーの地位を確立した改革者だったのです。

 けれど、日本デザインセンター設立時のスタッフでもあり、東京オリンピックのデザイン・コンペに指名された一人として氏の謦咳に接してきた永井一正さんは、「亀倉さんのデザインというのは、不器用で無骨なんです」「亀倉さんにとって伝統との葛藤がいかに大きかったか」と、人間・亀倉雄策の魅力と苦悩を語ります。

 青春期にウクライナ生まれのフランスのポスター作家カッサンドルの作品に衝撃を受けてグラフィックデザイナーを志し、バウハウスのデザイン理論を独学で学び、伊仏の文学を耽読して、西欧文化を必死で追い続けた青年期。1960年の世界デザイン会議での講演「KATACHI」では、日本の伝統的な様式の強固さを語り、デザイナーに課せられた重荷とそれに反抗し解体すべきだと主張しました。そして97年に肺炎で没する直前まで、デザイン界の指導者的存在として、また現役のデザイナーとして実作し続けました。

 いま見ても、新鮮でインパクトのある4枚の東京オリンピック・ポスター。これを眺めながら、
●日本デザインセンターを立上げて軌道にのせながら、なぜ亀倉さんは3年目に辞めたのか。
●東京オリンピック・ポスターのシンボルマーク「日の丸」の意味とは。
●1960年代とは、デザインにとってどういう時代だったのか。 
●彼と、そして同時代のデザイナーたちは、いったい何を思い、何を目指したのか。
●彼らの仕事が、いま私たちの社会をどのように変えたのか。
 ――そんなことを、ゆっくりと考えたいと思います。