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 発声
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 人の声は不思議です。親子のあいだでなら、「電話で聞くと声がそっくりだね」という場合もありますが、ふつう「その人の声」はどう聞いても「その人の声」にしか聞こえないもの。声帯はもちろん、口腔や鼻腔、舌、唇それぞれの構造が複雑にからみあい、身長や体型、体重も、スピーカーのボックスと同じように音の質や強弱にからんで、その人の声はつくられています。

 物真似でその人の声に似せた発声をしても、声紋を調べれば別人であることがわかってしまう。そもそも物真似がおもしろいのは、やっぱりどこかが本人とは明らかに違うからで、その違いは本人の特徴をかたちづくる要素のひとつをことさら滑稽に強調しているから生まれるものではないでしょうか。もしも完全に同じ声を出したとしたら、可笑しいよりも怖いはず。やっぱり違うものは違うのです。

 太古の昔には、目の前で声を出してやりとりするのがコミュニケーションのほとんどだったのでしょうが(いまのようにビルが建ち並んでいない、見渡しのきく原野であれば、たとえ何百メートルと離れていても、お互いの声を認め合うこともできたでしょう)、現在の日常的な暮らしのなかには音をさえぎる建造物があり、身のまわりには人工的な音もあふれていますから、人の声はそのなかにまぎれて消えてしまう。

 数メートル離れているだけなのに、わざわざメールで連絡しあったりもする私たちにとって、音声での伝え合いの優先順位は太古の昔にくらべ、だいぶ順位が下がってきているのかもしれません。それでもなお、声が私たちに与えるインパクトは、実は何よりも大きく、昔と変わらないのではないかと思います。

 声のことが気になり始めたのは、ピアノの調律師の方にお話をうかがったことがきっかけでした。調律師の方はインタビューの最後に、日本人は「発声」というものについて無頓着すぎるのではないか、とおっしゃったのです。日本語は、イタリア語、ドイツ語、英語、中国語などにくらべて抑揚が少ない。日本人同士のコミュニケーションは、表情のちょっとした変化で何かを伝え、発音にもあまり強弱をつけず、フラットである──というのです。なるほど。

 次号の特集(「ピアノの時間」4月4日発売)でピアノの調律師の方にお話をうかがうことにしたのは、昨年の初夏に来日していたピアニスト、ピエール=ロラン・エマールさんのリサイタルのリハーサルを取材していたときのことでした。本番の数時間前、東京オペラシティのコンサートホールの舞台の上には、スタインウェイのコンサートグランドピアノが二台並んでいて、エマールさんがその二台を弾きくらべて、どちらで演奏することにしようかと思案しているところでした。そしてエマールさんが意見を聞き、あれこれと相談をしていたのが、日本人のコンサートチューナー、外山洋司さんだったのです。

 外山さんと相談の結果、ピアノを決めると、外山さんの作業が始まりました。そのときに驚いたのは、グランドピアノから鍵盤につらなる構造体の部分を、ぐいと手前に引き出して、見たことのないような作業が始まったことでした(今、発売中の「考える人」09年冬号の最後の頁に、外山さんの調律中の写真が掲載されています)。

 ピアノの弦をたたくハンマーのフェルトの部分に、針のようなものをさしたり、フェルトをサンドペーパーのようなもので削ったりしている。いったい何をしているのだろう? 初めて見る光景に、目が釘付けになりました。

 詳しくは次号のインタビューをお読みいただきたいのですが、外山さんが何度となく繰り返されていた作業は、「整音」というものでした。英語で言うとvoicing、つまりピアノの「声を整える」こと。ピアノの調律は、音程の狂いを正しくするのは当然として、どのような音質をピアノから引き出すか、ピアノの「声」を調整することがある意味で、もっとも大切なことのようなのです。

 ピアノの「声」をきちんと聞き分け、そして弾き分けるには、人の「声」についての感受性が深くかかわっているはずで、弾き手自身も、発声というものについてもっと意識的であるべきだ、というのが外山さんのお考えなのです。ピアノを弾かなくなってもう四十年近くになりますが、外山さんのお話はからだの奥深くで納得のいくものでした。

 そう言えば、海外の作家を何度かインタビューしたときに、「小説のヴォイス(voice)が何よりも大切だ」、「ヴォイスがなかなか決まらなくてね」というような発言をしばしば耳にしました。声というものは部分のようでいて、全体に深くかかわるもの、全体が表れてくるもの、なのかもしれません。ピアノの特集で声に出会うとは予想もしていませんでしたが、エマールさんの弾くメシアンをiPodで聴いていると、たしかにこれは音というよりも声なのかもしれない、と思ったりしています。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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