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 家のあと
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 お隣の一軒家が取り壊されて、いまは目の前に何もない黒っぽい地面があらわれています。取り壊しと聞いたとき、ショベルカーがばりばりと家を削り取るように壊してゆくのかと思っていたら、手慣れた感じの職人たちが、トントンと手作業で窓のアルミサッシなどをひとつひとつはがしたり、鉄骨部分もトラックにまとめて積み込んだり、こまごまとした解体は騒音もそれほどひどくなくて、いまどきの取り壊しは丁寧なものだなと感心しました。

 その家に住まわれていたのは初老のご夫妻でした。引っ越しを決めたのは、お嬢さんの息子さんが小学校にあがることになったから、と立ち話でうかがいました。働いているお嬢さんが会社から帰宅されるまでのあいだ、平日はお孫さんの世話をすることになり、そのためにお嬢さんの家にほど近いマンションに住まいを移す決心をされたのだそうです。

 お孫さんは小さい頃から、休みの日になるとときどき遊びに来ていました。おとなしいけれど挨拶がしっかりとできる男の子で、表情はどこかおじいちゃんに似ている。静かににっこりと笑う瞬間の表情は、とくに重なって見えます。孫をもつ喜びというものが伝わってくるような光景をしばしば見かけていたので、引っ越しの話をうかがったときには、なるほどそういうものかと感じ入りました。

 ただ、ご夫妻には心残りなことがありました。それは、丹精してきた草花、植木のゆくえです。ご夫妻ともに、「みどりのゆび」の持ち主だったようで、家のぐるりには、季節の折々に、さまざまな種類の花が咲き、さまざまなかたちの葉がいきいきと茂っていたのです。水をやり、虫をとり、剪定をし、「丹精する」とはこういうことかというぐらい、おふたりの作業は一日たりと欠かされたことはありませんでした。

 立ち話をしてしばらくしたころ、奥様が訪ねて来られ、なんとなく遠慮がちな表情で、こう切り出されました。「あの、もし引き取ってくださるのならばなんですけれど、ちょっと大きい鉢植えがあって」。奥様のあとについていくと、玄関の横にある駐車スペースの脇に、大きな鉢に植えられたハナミズキが枝をのばしていました。「これだけ大きいと、とてもマンションには連れて行けないので」と奥様が言います。お話をうかがっているうちに、春には、のびのびとした枝にいっぱい花を咲かせていた記憶がよみがえってきました。まだ春先の、冬のたたずまいのハナミズキのたよりなげな枝ぶりを見あげていたら、「ありがとうございます。よろこんでお預かりします」と迷う余地もなく答えていました。

 その翌日から、家のまわりに置かれた植木鉢を見下ろす塀に、「転居しますので、植木鉢はどれでもご自由にお持ちください」と書かれた紙が貼られるようになりました。おふたりのこころのうちを想像すると、丁寧に書かれた手書きの文字に、さびしい匂いがにじみ出してくるようです。

 やがてご夫妻は引っ越されました。誰もいなくなった家は、とたんに生気を失ったようです。それまで気づかなかったガレージの柵に浮かぶ錆や、ベランダの傷みが目につくようになりました。毎晩あかりがともっていた窓も暗いまま。一週間ほど、そんな家の様子を眺めていたら、まもなく家のポストに「取り壊し工事が始まります」というお知らせが投函されていました。

 うちの狭い庭の片隅に居場所を移したハナミズキは、これまでと違う角度から太陽の光を浴びながら、お隣の家が壊されてゆく様子を眺めているようでした。すっかりかたちがなくなって、黒っぽい地面が日を浴びるようになったころ、ハナミズキの花がにわかに咲き始めました。庭のながめが急に変わったようです。ご夫妻にハナミズキが咲いたことを知らせたいと思うものの、転居先をおうかがいすることを忘れていたので、それもかないません。

 ご夫妻が引っ越されて残念でならないことが、もうひとつあります。それは秋のサンマです。ご夫妻のどちらかの親戚から送られてくる、気仙沼から直送のフレッシュなサンマをいつも「食べきれないので」とお裾分けしてくださっていたのです。すくすくと育ち、たっぷりと脂がのった、身の引き締まったサンマのおいしさは、ちょっと忘れがたい。

 私と同じように、気仙沼のサンマの焼ける匂いを毎年嗅いでいたにちがいない野良猫がいます。近所をなわばりとする三毛猫の「社長」(──と勝手に命名したのです)。三毛猫ですからつまり「女社長」です。彼女もたぶんお隣の鉢植えの匂いも嗅いでいたでしょう。それまであった家が壊されてなくなった、という意識が彼女にあるのかどうか。家の影も形もなくなったくろぐろとした柔らかい地面の上を、今朝も彼女がゆったり堂々と斜めに横切って歩いていくのを見かけました。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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