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 蒸しタオル
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 暑い。湿度さえ低ければなんとかなるのですが、この蒸し暑さはほんとうにつらい。アリゾナで42度の気温を体験したことがありますが、アリゾナは空気がカラカラで、日陰に入りさえすれば42度とは思えない快適さ。湿度が低ければこんなに大丈夫なんだとおどろきました。それ以来ますます、湿気が苦手になりました。

 夏のうっとうしさを後押しするのは、顔にじわじわと浮かんでくるてかてかです。朝起きて念入りに洗顔をしていても、昼をすぎるころには顔が光をおびてくる。てかてかは顔に毛布をかけられたような温室効果があるので、いっそう体感温度が上昇します。ほんらいならば、汗は気化熱で体温の上昇をふせぐはずなのに、わたしにとっては逆効果なのでは、と疑いたくなる。

 てかてかは時間の経過とともにさらに濃く、ぎらぎらしてきます。そのまま放置しておくと、火のついたマッチを近づけたら引火しそうな危険な感じになってくる。てかてかを放置して炎天下に出れば、顔から煙りが立ち上って……いやしかし、なんでこんなにあぶらがでるのか。湿度が低いところでなら皮膚の保護のためだと理解できる。しかしこの湿気のなか、なぜ? 勘違いか嫌がらせとしか私には思えない。

 そんなてかてか顔の救世主はなんといっても蒸しタオルです。いやもちろん洗面所で石けんをつかって念入りに洗顔できればいいのですが、外出先で顔を洗うのはなかなか難しい(こう書いていて驚いたのですが、「洗手所」じゃなくて「洗面所」なんですね。やっぱりそうか。手より顔を洗うのが大事なんだ)。洗顔後にポケットのハンカチで顔を拭いてしまったら、ハンカチをつねにカラリとさせておきたい私には我慢のならない事態。だからといって、朝から晩まで首からタオルをさげておくわけにもいかない。

 やっぱり蒸しタオルです。蒸しタオルさえあれば、不快な顔のてかてかも一網打尽。蒸しタオルを考えた人はほんとうにえらい。欧米で蒸しタオルをほとんど見かけないのは、日本にくらべて断然空気が乾いているからにちがいありません。

 蒸しタオル界の一等賞は、なんといっても床屋さんの蒸しタオルです。椅子がリクライニングの状態になり、むこうのほうから蒸しタオルがはこばれてくるのを待つ微妙な間。頭のうしろに立ちどまった床屋さんが、あつあつの蒸しタオルをぱふぱふ微調整して、適温になるやいなや顔にのせてくれる。5秒ぐらいそのまま放心。それからむぎゅむぎゅと顔を拭かれる物理的な気持ちよさ。床屋さんに遠慮しないですむのなら、熱い温泉に入った瞬間のようなうなり声をあげたいぐらいです。

 しかし蒸しタオルのよろこびははかない。この快楽が永遠に続いてほしいと念じても、顔を拭かれているそばから温度は急降下し、官能的な儀式はあっけなく終了。余計な時間をかけて念入りに拭かれてしまうと、蒸しタオルだったはずのタオルはただの湿ったタオルに格落ちし、かえって不快な感じになってしまう場合もあるので注意が必要です。蒸しタオル道はなかなか難しい。

 蒸しタオルが去っていったあとの気持ちよさもまた格別です。それまで感じられなかった床屋の空間の気流があざやかに感じ取れるのは、顔の毛穴の機能が100%回復したからにちがいない。すーすーと風通しのよくなった毛穴が鼻歌をうたっているようです。

 かなうことならば、夏季限定の「蒸しタオル担当執事」がほしい。ゆくさきざきで、会社のなかで、リクライニングシートにわたしを横たえ、「失礼いたします」と低い声で挨拶をしたあと、蒸しタオルで顔を拭いてくれる執事。「おつかれさまです」という言葉はふだんはかけ声に終わりがちですが、蒸しタオルとペアになった「おつかれさまです」ならば、きっと心にしみわたるでしょう。拭く人だって、直前までてかてかして不機嫌そうだった人が、みるみるきれいないい顔になるのですから、働きがいがあるというもの。

 仕事がはかどるだろうなー。気持ちもとげとげしないですむだろうなー。適温を保持する特別仕様の蒸しタオルを顔にかけられて、白いタオルごしに悩みごとやら気になっているあれこれについて静かに的確に聞き出してくれ、「大丈夫ですよ」とでも言われたら、汗腺ばかりか涙腺までゆるんできそうです。

 今日も東京はぎらぎらの暑さ。午後には外出が二カ所。会社に戻れば「芸術新潮」の校了作業が待っています。途中でどこからともなく「蒸しタオル執事」が現れないかな。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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