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 声の大きさ
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 今年のセミは去年よりも数が多いような気がします。大木の下に立つと、頭から手足の先まで「蝉しぐれ」を浴びることができます。そのまま木の下に立っていると、気が遠くなるような感じになってくる。

 アブラゼミの数はそれほどでもないかもしれません。ただ、例年よりもツクツクボウシの鳴き始めるのが早く、しかも数が多いようなのがふしぎです。私が小学生のころ、ツクツクボウシは8月の末になってから鳴き始めていたはず。ツクツクボウシの声を聞けば「ああ夏休みが終わりだ」と思ったものです。

 庭の真ん中にある桂の木でツクツクボウシが勢いよくお腹を動かしながら鳴いているのを、今朝はちょうどその真横から眺めることができました。彼としては必死なのでしょうが、なんだかあられもない感じがして、どきどきします。「相手」になるはずのメスは、ちょっと見渡したところ、姿は見えませんでした。

 メスがオスの鳴き声を聞くのは、同じ樹の幹にとまっているときなのか、あるいは少し離れた樹にとまっているメスが、オスの鳴き声に関心をひかれ、同じ幹に飛びうつってだんだんと近づいていくのか。昔、何かで見た記憶がうっすらとあるのですが、忘れてしまいました。

 ツクツクボウシの鳴き声は、メロディが二段階に分かれていて、「オーシツクツク、オーシツクツク……」と六、七回繰り返したあと、突如転調して「鯖ラシイヨー、鯖ラシイヨー、爺ィー」と最後はしぼむように鳴きやみます。アブラゼミほどの声量はありませんが、芸がある。

 メスはメロディのうつくしさとか、声の張りとか、音量とかで判断するのでしょうか。あれだけワーワーいっぺんに鳴いているなかでは、声の小さいのとか、張りのない鳴き声だと見向きもされないのでしょうか。私としては「このひとなんだか声が大きいばっかりで、味気ないわ。彼のほうがちょっと渋くて味わい深くて、すてき」という判断もぜひあってほしいのですけれど。  私は気は小さいのですが、声は大きいらしいのです。「らしい」というのは、自分では意識したことがなかったからなのですが、どうも電話で話しているとき、声が大きくなる傾向があるようです。原因として考えられるのは自分の耳が少し遠いこと。人の話し声がよく聞き取れないということは、すなわち自分の声も実際より小さく聞こえているため、つい声が大きくなる──のではないか。

 静かな部屋ならいいのですが、まわりで何人もが電話で話していたり、街の雑踏のなかで携帯電話を使わなければならなかったりすると、もう絶望的に相手の声が聞き取れず、どこかに場所をうつさないとまともに話ができません。耳が遠いわりに雑音には過敏で、相手の声よりもまわりの音に神経がいってしまう。脳の機能に少し問題があるのではないか、と思うほどです。

 会社のよく食堂で一緒になる同僚のS君はとてもいい声なのですが、ヴォリュームが小さいので、「え?」としばしば聞き返してしまいます。食堂のざわざわに、テレビの高校野球中継が重なると、耳の遠いおじいさんの心境が痛いほどよくわかる。私は不必要に大きな声で彼にたずねます。

「S君さ、自分の声はよく聞こえるの?」(ひどい質問)「はい(苦笑)。声は小さくても骨伝導がありますから、大丈夫です」「そうか。骨伝導か……」

 そんなやりとりのあと、S君がまた別の話をはじめると、これがまったく聞こえない。やれやれ。しかたがないので、彼の左肩に私の右手をがしっと置いてみます。「え?」と目を見開いてこちらを見つめるS君。「こうすれば骨伝導で聞こえるかと思ったんだけど、変わらないね」「はあ……(苦笑)」

 でもS君の声は、繰り返しますがちょっと低めのいい声なので、セミの求愛行動としての鳴き声と対照して考えると、音量が小さくても大丈夫なのは人間の特権ではないか、という見方も成り立つような気がしてきます。いや、踏み込んで考えれば、無神経な大声の男性よりも、感じのいい小さめの声の男性のほうが女性には人気があるのでは――という仮説も浮上してくる。うーむ。

 人間のコミュニケーションは複雑です。しかしセミは短期間勝負。繊細なことなんて言っている暇はない。いやそうではなくて、セミの鳴き声はわれわれが知覚するよりもはるかに複雑な要素をふくんでいる可能性もある。きっとセミの鳴き声も科学者の研究対象になっているでしょう。研究者の話をぜひきいてみたい。

 大学院でメダカの切れた尾びれの再生について研究していたという「新潮」編集部のKさん(最新号の特集「日本の科学者100人100冊」にも協力してくれました)に今度聞いてみることにしましょう(ちなみにKさんも、S君級に声の小さい人なのですが……)。

 あと一月もすれば、セミの数もぐっと減っているはず。いましばらく、セミの短い夏を味わいたいものです。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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