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 ふたつのレクイエム
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 橋本治さんの「波」9月号のインタビュー「男はなぜ、ゴミ屋敷の主になったのか?」は、橋本さんの最新刊『巡礼』をめぐってのものです。『巡礼』が月刊誌「新潮」に一挙掲載になったおりにも「考える本棚」で触れましたが、今週、単行本として刊行されたばかりの長篇小説『巡礼』は、橋本治さんがもう一度、小説家に生まれかわったようなおそるべき傑作です。いや、こういう言い方は少しちがうかもしれません。橋本さんはそもそも初めから小説家であり、このような小説を書いてしまう人でもあったことを、不意打ちのように、そして決定的に、気づかされた作品と言えばいいのでしょうか。

 8000枚におよぶ『窯変源氏物語』や、9000枚におよぶ『双調平家物語』が、『巡礼』のような作品を生み出す肥沃な大地の役割をも果たしていたのかもしれません。「広告批評」を舞台に長年続けてきた連載「ああでもなくこうでもなく」で、世の中の出来事を見つめ、時評を書き続けてきたことも、小説の主人公として“ゴミ屋敷の主”が選ばれてゆく何かのきっかけになっていたかもしれません。

 いずれにしても、若くしてデビューしたひとりの書き手が、長い歳月、多様でありつつもまっとうで筋の通った仕事を今日までたゆむことなく続けながら、還暦を過ぎたところで、はじめてこのような小説を書くにいたったのだ、と思わずにはいられないのです。大人になって――いや、橋本さんにはそぐわない言い方かもしれませんが――老境に半歩足を踏み入れたときはじめて、このような小説が書かれることになったのではないでしょうか。

「波」のインタビューで、橋本さんはこのように発言されています。

「いま悲惨にみえる人にも、美しい時代があった。そのあとで落ちてゆくにしろ、一輪ずつ花を挿すように、幸福なほうに力を入れて書きたいんです。興味本位にいやなことは書きたくない。小説とは基本的に鎮魂なのでは、という思いもあります」

 橋本治さんが小林秀雄賞を受賞した批評の仕事『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(新潮社)も、三島由紀夫という小説家を鎮魂しようという思いをいだきながら書かれたものでした。橋本治という人の仕事は、どこか自己表出的な表現とは距離をおき、他者に何かを見いだそうとし、見いだされたものをさらに理解しようとする姿勢でつらぬかれているような気がします。『巡礼』が、そのような橋本治さんの仕事の、大きな到達点であることは間違いありません。

 一昨晩は、松本市で行われているサイトウ・キネン・フェスティバルで、小澤征爾指揮によるブリテン「戦争レクイエム」を聴きました。20世紀イギリスの作曲家、ベンジャミン・ブリテンの代表作「戦争レクイエム」は、第二次世界大戦を題材に、戦争で亡くなった兵士たちを鎮魂しようと構想された曲です。初演は1962年。

「彼らに永遠の安息をお与えください、主よ。そして絶えることのない光が、彼らを照らしますように」──児童合唱団による清冽な合唱と、通奏低音のように折々に静かに鳴り響く鐘の音で始まる「戦争レクイエム」は、ひたすら圧倒的で、最後まで音楽にのみこまれるようにして、全身でその歌と演奏を聴くことになりました。

 音の奥行き、広がり、重さ、イメージの鮮やかさ、繊細な震えのようなものがすべて伝わってくる演奏をみごとに引き出したのは、小澤征爾の緻密で懐の深い解釈だと感じました。ひたすら重く、沈鬱になってもおかしくない内容でありながら、そこには美しさがあり、生きることの不思議さのようなものまで見事に浮かび上がってくるのです。

 テノールのアンソニー・ディーン・グリフィーの歌声もまた傑出したものでした。死の恐怖、おののきをあらわしながらも、聴くものを陶然とさせるような艶やかな声はいったいどこから出てくるのか。彼の歌はライブではじめて聴きましたが、並外れた表現力には、それまで生きてきたすべてが現れているようでした。これは、楽器的な道具としての声ではない、と感じさせられるのです。

 ひさびさに魂をゆさぶられるような演奏会でした。アンコールのない(「戦争レクイエム」の後にアンコールはあり得ないと感じます。この選択もすばらしい)会場をあとにして、クルマで東京まで帰る約三時間は、他の音楽を聴く気持ちにはまったくなりませんでした。高速道路を走るエンジン音と、タイヤがひろう道路の感触だけを聴きながら、暗い高速道をひたすら走りつづけました。

 最後に、橋本さんの「波」のインタビューから引用しておきましょう。

「いまは神仏のいない時代ですよね。そのことをもう少し重く考えたほうがいいと思う。苦しいときの神だのみというか、なにかが救済してくれるという感覚は、人にとって大事なものなのではないか。自分ひとりで抱えられることばかりではないでしょう」「いまは日本中どこでもシャッターのおりた商店街だらけです。なかに人がいるのかどうかすらわからない。私はそこにも人はいると思うんです」

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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