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 IKOBU
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「考える人」の最新号の入稿作業がまっさかりです。12月になったら片付けをしなければとおもっていたはずなのに、作業テーブルの上は原稿だのレイアウト用紙だの進行表だの台割だのがひしめきあい、重なり合っている状態。その波のまにまに赤鉛筆、消しゴム、定規、ホワイトなどがぷかぷか浮いたり沈んだり。

 晩ごはんも近くの洋食屋さんからお弁当を届けてもらって食べる回数が増えています。歩いていけば5分という近さですから、食べに行けばいいものの、入稿校了時には会社の食堂でもそもそとお弁当を食べている少し侘びしい図も悪くない。

 洋食屋さんは「IKOBU」(イコブ)という名前です。耳慣れない変わった店名ですが、オーナーの中村功さんの子ども時代のあだなから来ているらしい。入社したばかりの頃、校了日の夜に編集部の先輩につれられて、はじめてイコブに行きました。「編集者って、こんな洋食屋さんで夕ごはんを食べるのか。ぜいたくだなー」というのが最初の感想でした。

 中村さんはもう還暦を過ぎていますが、日曜日をのぞく毎日、店に出て、厨房とお客さんのあいだを取り仕切っています。ランチもありますから、毎日7~8時間は立ちっぱなし。ランチと夕食のあいだの時間帯で昼寝をすると聞いたことがありますが、ほんとうに寝ているのかどうかは見たわけではないので不明。

 新潮社の社員がおじゃまするのはランチより夜が中心です。中村さんとは十年、二十年、三十年のつき合いという顔ぶれなので、毎週月曜日に週替わりのメニューがあたらしくなると、いちいち口頭での説明を求めながら、メニューの細かいところにあれこれ難癖をつけたり、「中村さん、ぼくは今日、何を食べたらいいの?」と開き直ったり、まあ要するにじゃれているのですが、そのたびに苦笑いしながらもきちんと対応してくれるのがすばらしい。

 ごくまれに、他のお客さんがいないときには、私の座っている隣のテーブルに離れて座って(同じテーブルには座らない。すぐに立って動ける態勢を保ちながら話すのが中村さんの流儀)、あるときはサイクリングの話、あるときは腰痛に効くツボの話、独立する前に働いていた銀座の(だったかな? 新橋だったかな?)ジャーマンベーカリーで会ったおもしろいお客さんの思い出話、なんかを聞く楽しみもあります。

 店内には船具(櫂やマスト、ランプなど)が飾られていて、これも雰囲気がある。客席のレザー風の生地の貼り替えなんかも自分でさっさとやってしまう。食後に淹れてくれるコーヒーがおいしい。私が最近頻繁に注文するお気に入りのメニューはポークジンジャー。最近食べていませんが、「風味焼き」というアルミホイルの包み焼きを大根おろしのポン酢で食べるのも好きでした。冬になると「ねぎま鍋」も登場します。編集部の若手は、「ぼくはカツカレーが好きです」と断言します。

 中村さんをサポートしてウェイトレスをしているのはお嬢さんで、奥様もときおり手伝っていらっしゃる。「うちは正真正銘、本物のファミリーレストランですから」と言う中村さんは、神楽坂に次々と進出してくるチェーンのファミリーレストランには複雑な思いを抱いているはず。でも悪口を言うわけではない。

 しかし、イコブは昔ながらのおいしさに、新しいメニューも随時導入しながら、中村さんのみごとな「客あしらい」も加わって、常連が絶えることはありません。新潮社を定年退職した元編集者でさえ、わざわざ電車を乗り継いで定期的に食べにやってくる人がいるぐらい。作家のファンも少なくありません。中村さんは作家のサインを壁に飾ったりすることは絶対にしませんから、イコブに「あんな作家」や「こんな作家」まで来ているなんて、知らない人は誰も気づかないでしょう。

 お弁当の出前には、中村さんがみずからいらっしゃいます。店内ではノーネクタイなのに、新潮社に出前に現れるときはネクタイをしている。私が真っ暗な食堂の明かりをパチパチパチと点けたら、「ほら、こんな広い食堂の明かり全部つけたらもったいないでしょ!」と叱られました。メニューにはないポークジンジャー弁当は相変わらずおいしかった。夜業のエネルギーはイコブにもらって27年。地下鉄東西線神楽坂駅の、早稲田寄りの出口から地上に出て徒歩3分、住宅街のなかにひっそりとあるイコブは、初めてフラッと入るのには少し勇気がいるかもしれませんが、大丈夫です。1階よりは2階がおすすめ。「松家のメルマガでみた」と言ったら、何かサービスしてくれますか、中村さん?

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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