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 出版界の未来は明るい その2
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 私にとって本の記憶とは、ときに本に書かれてあることを超えて、物としての手触りや色、活字のならぶ文字列の記憶です。私のなかから消えずに残っているのは、たとえば函入りの新潮世界文学シリーズで読んだドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『悪霊』。ダークグレーのごわごわとした革張り風の表紙に、金箔の線でドストエフスキーのサインがおごそかにあしらわれた装幀。その手触りと本の重みの感覚は、三十年以上の時間を経てもなお、手のひらによみがえります。

 村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、函から本を引き出せばピンク色のクロス装があらわれました。そのクロス装の手触り。ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』はつるつるしたカバーに、公園に立っているブローティガンを撮影したモノクロ写真が印刷されている。北杜夫さんの『どくとるマンボウ航海記』はビニールカバーがかけられた角背の表紙。

 本文の文字組も、読む経験の質をおおきく変えます。うつくしい二段組の本もあれば、ただ文字をギューギューと押し込んだだけの読みにくい二段組もある。新聞のみならず文字拡大の改訂作業が各社の文庫ですすんでいますが、ときには、ただ文字が大きくなっただけで、行間や字間が詰まりすぎ、かえって文字拡大前の版のほうが(老眼の私ですら)読みやすかったりする逆転現象も起こり得るのです。文字組は書体、文字の大きさ、行間、字間の総合したものであって、文字の大きさだけで決まるものではありません。

 さらに言えば、印刷所のインクの盛り具合によっても、読むときの印象がかなり変わってくる。しっかりと黒々とした刷りになる場合もあれば、なんとなくあっさりと淡い刷りもある。これも文字組の状態とリンクしているので、ただインクを盛れば濃くなって読みやすい、とは限らない。そもそも同じ明朝書体であっても、印刷所によっては活字のデザインがかなり違う。見た目の印象もおおきく変わるのです。

 同じ9ポイントの活字であっても、A社の活字とB社の活字を並べてみると、A社のほうが明らかに小さく見える。しかもA社の活字をベタ組みした場合(字間を詰めず、スタンダードに組む)と、B社の活字のベタ組みに較べて、A社のほうが字間があいているように見える。60代より上の小説家によっては、書体と文字組のうつくしさを好んで、「A社で組んでほしい」とわざわざ印刷所を指定してくる人もいました。

 1998年にスタートした翻訳書のシリーズ「新潮クレスト・ブックス」では、創刊までの準備期間に装幀担当者と相談しながら、印刷所に依頼して文字組の見本を何種類かつくりました。行間、字間の設定も何種類か見本組をとり、文字組によってつくられる版面(はんづら)の、天地左右の余白をどのようにとるか、0.5ミリ単位での検討を繰り返しました。

 造本についても、あたらしい製本方法を装幀担当者が考え出し、製本所と何度となくテストを繰り返して実現したもので、私たちがクレスト装とよぶ「仮フランス装」のあたらしい製本方法が生まれています(クレスト装は、いまは各社の本で見かけるようになりました)。カバーをとったときに現れる表紙の紙も、それまでに使ったことのない、独特の手触りのあるものを装幀担当者が見つけていて、いつか何かの本で使いたいとひそかに出番を待っていたものでした。それらすべてのやりとりは、私たちの目と手が「さわるもの」としての本を、少しでも魅力的なものにしたいという考えから生まれています。

 いまから約550年前に、グーテンベルクが世界で初めてつくった活字による聖書は、それまでつくられてきた写本のスタイルをすべて踏襲したものでした。というよりも、美しく完成されたデザインとしての写本をそっくりそのまま完璧に再現しようとした、といったほうがいいかもしれません。活字で印刷されたものだと説明されなければ、写本だと思い込んでしまう出来映えになっていたのです。

 こうして私たちが手にし、目にする「本」というかたちは、写本まで含めれば、活字印刷の歴史の何倍もの時間が流れるなかで組み上げられ、磨かれてきた、人間の感覚により添うなにものかです。頭だけでなく、私たちのこころとからだにまでもしみこんでくるような、身体性のともなう「端末」なのです。その流れは、電子書籍端末までしっかりとつながっている。このことは覚えておいていいでしょう。

 高度経済成長とともに膨張してきた日本の出版界は、おもに雑誌の多様化と普及によって「読書人口」を増やし続けました。「活字離れ」という言葉は、一部の「本」に対しての限定的な判断から生まれた言葉であって、人が「活字」から離れ始めたという見方は実態とはかなりのズレがあります。人はますます文字を読むようになっているからです。

 少なくとも本や雑誌などを読む層は1995年あたりまでひたすら右肩上がりを続けてきました。パソコンや携帯が普及したことと、書籍や雑誌の売り上げにブレーキがかかり始めたこととの間に因果関係はない、とまではいいません。しかし、1960年代の日本人に較べれば、私たちははるかに多くの文字を、日常的に読むようになっているのです。

 ひとつたしかなことは、戦後60年余りをかけて、「本」は徐々に敷居を低くし、消費財として幅広く普及していった、ということです。本は一部の人たちが手にするものではなくなった(昔は子どもが本ばかり読んでいると怒る親がいたものです)。昔の文芸書は10万部でベストセラーだったのが、現代では100万部を超えることもそう珍しくない。消費財化されれば、造本装幀にしても、本文組にしても、あまり余計なことはせず、削ることのできるコストは削っておいたほうがいい、となるのは当然のなりゆきです。

 造本装幀にこだわる編集者は、先輩編集者のやり方を見よう見まねで自分のものとし、その上に自分の匂いのようなものをひそかに加えてゆくものでした。目次のつくりかたや奥付の体裁、帯のデザインなどは、編集者の腕のみせどころでした。しかしそれも、出版社が大きくなって分業化がすすめば、「なんだかめんどうくさいから誰かにやってほしいもの」に変わってゆきます。そして本は、なんとなく同じような雰囲気をした、手触りも見た目もそれほど変わらない、癖のないものになってゆくのです。

 活字印刷の発明にも匹敵するあたらしい媒体といえるキンドルのような電子書籍端末が主流になれば、やがて造本装幀など過去の遺物になるでしょう。しかし過去の遺物は、おそらくまだしばらく消えることはない。遺物となったとたん、それを懐かしみ、愛でる人が現れるからです。そうでなければ、地球上の古い建物はひとつとして残らなかったでしょう。本という形態は、人の記憶を刺戟する懐かしい手触りをもとめる人にとって、無限ともいえる可能性を持つ、実に魅力的な「古くて新しい」ものなのではあるまいか。

 キンドルを日常的に使いこなすいっぽうで、紙やインクでつくりだされる一冊一冊の持つクオリアを味わいつつ本を読む。そのような読者が500年後にも存在し続けるだろうとは言いません。しかしここしばらくは、消費財としての媒体の役割はあたらしいメディアにバトンタッチしつつも、しかし旧来の本は可能性のある「遺物」としてその魅力を磨きなおす必要がある。前ばかりを見ようとするからおたおたとするのです。もう少し自分たちの足もとを、歩んできた後ろの道を、しっかりと見ておいたほうがいい。そう思います。(つづきます)

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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