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 箱根
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 火曜日から仕事で箱根に来ています。初日は朝から雨でした。箱根にはじめて来たのは小学4年生のときです。林間学校、つまりは「泊まりがけの遠足」だったのですが、やはり雨に降られ、合羽を着て、しょぼしょぼと歩いたことを覚えています。

 当時は箱根が雨のよく降る場所だなんていう意識はまったくありませんでしたから、せっかく初めてきたのに、とがっかりしました。バスのなかも、合羽のなかも、遊覧船も、宿泊施設も、どこもかしこも雨の匂いがして、それと新緑の木々からしたたり落ちる揮発性の匂いとがあいまって、全身が緑色にそまったかのように感じたものです。

 昨日から雨は小やみになっています。かわりに白い霧がたちこめて、緑の山肌を生きもののように吹き上がり、またかけおりてゆく。宿泊しているホテルの部屋からは、山林鉄道がゆっくりしたスピードで山をのぼったり、おりてきたりするのが見えます。緑の山に白い霧がかかり、そこを赤い車体が横切る様子は幻想的です。夜になると、車体は闇に溶けて、人影のほとんどない、白っぽく明るんだ車窓だけが、浮かび上がるように動いてゆく。

 やがて天気は回復するものと思っていたのですが、昼頃からまた雨が降り始め、午後になると重たい雲のむこうで雷が鳴りはじめました。林立する建物のあいだに轟く東京の雷とは、音の気配がちがいます。あたりの空気をたっぷりと吸い上げて落ちてくる、鈍くて重い響き。それが山にこだまして、しばらく雷鳴が続きます。

 宿泊しているのが古いリゾートホテルのせいか、部屋にはネット環境が用意されていません。ネットにつながるのは、ロビーに設置された無線LANの届く範囲だけ。朝食の前と、夕食の前、一日に二回だけチェックしていますが、そんなことをしている人は誰も見かけません。ふだんどれだけネット漬けになっているのか、メールのチェックをどれだけ頻繁に繰り返しているのか、こういう場面で気づきます。なんだか自分が貧乏くさく感じられます。

 そして今朝はやく、ロビーの片隅にある革張りの椅子に腰掛けて、膝の上にのせたノートパソコンをパタパタ叩いていたときのこと。ホテルのフロントの人がにこやかな顔で近づいてきました。

「おはようございます。松家さま」「あ、おはようございます」「あのー、これはひょっとして」「はい?」 黒い制服の腕が私のほうに伸びて、あるものを見せようとします。 手のひらのうえで、小さなビニール袋に丁寧におさめられ、なんだか小さくなっているものは、新潮社の食堂で使うオレンジ色の「喫茶券」でした。「え? あれ? どうしてこんなところに」 意外なものを見せられて、思わず狼狽してしまいます。「ロビーに落ちていたようです」「いやー、そうですか。いやー、すみません。どうもほんとうに」 立ち上がって、おじぎ。「ようございました」 ホテルの人は満足そうな笑顔で、去っていきました。

 不思議です。なんで落としてしまったのかな。私の上着のポケットや、ジーンズのポケットには、使わずに残ったオレンジ色の喫茶券がそのまま入っていることがよくあるのですが……。きのうは仕事でばたばたしていたから、なにかのはずみでポケットからこぼれおちてしまったんでしょう。申し訳ない、私の喫茶券よ。東京にもどったら、ちゃんと使ってあげるからね。

 それにしても、気持ちの集中する、快い緊張感のある三日間でした。今日いっぱいで出張を終えて、明日からまた出社します。最新号が発売になって一ヶ月あまりがすぎ、次号の仕事がすでに佳境に入っています。6月に入ってしばらくしたら、次号特集についてホームページでご案内したいと思っています。どうぞご期待ください。

「考える人」編集長 松家仁之(まついえまさし)
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