デザイナー、イラストレーター、エッセイスト、映画監督 …… ひとつの肩書きではおさまり切らない和田誠さんは、1962年当時、銀座にあるデザイン専門会社「ライト・パブリシティ」(以下、「ライト」)で社員デザイナーとして働いていました。講談社エッセイ賞を受賞した自伝的エッセイ『銀座界隈ドキドキの日々』(文藝春秋)でも当時のことを振り返っています。

 まだ「グラフィック・デザイン」という言葉が「商業美術」と呼ばれていた1955年、和田さんは多摩美術大学の「図案科」に入学します。在学中に映画のポスター(「夜のマルグリット」)で「日宣美賞」を受賞し、1959年「ライト」に入社。入社1年目から電電公社などの広告を手がけ、タバコ「ハイライト」のパッケージデザインのコンペでは見事和田さんの図案が採用されました。

 入社4年目となる1962年は、コピーライターの土屋耕一氏とタッグを組んだ、「ピース」の雑誌広告の仕事など、「ライト」のデザイナーとしてもっとも脂の乗っていた時期にあたります。おりしも日本は高度経済成長期を迎え、広告の出稿量も増大し、戦後日本のデザイン界が大きく発展しようとしていた時期でした。

「六〇年代前半から広告のデザインがぐっと良くなっていったことは確かですね。それまで商業美術と呼ばれていたものがグラフィック・デザインとして認知され始めたことが大きいでしょう」

 しかし和田さん個人としては、「実感ではその頃から広告の仕事が面白くなくなってくる」。その理由はぜひインタビューをご覧になっていただくとして、驚くのは、和田さんの創作の哲学と方法論がすでにその頃から確立していたということです。「確立していた」というのは、つまり「意識化していた」ということです。それは美大時代の恩師で、資生堂のデザインなどで名を馳せた日本の戦後デザイン界の重鎮・山名文夫さんの「君は出された問題に対して答を探そうとしている」という言葉にあると、和田さんは語ります。

 また、「イラストレーターとして独立したいとも思いませんでした。当時はデザインとイラストレーションが分業化されてなかったし、両方やるのが当り前で、ぼくはデザインすることが好きだしね、今でもそのやり方を続けてるわけなんです」といった言葉にも、和田さんの現在でも変わらぬ創作の哲学が隠されているように思います。

 1962年の映画をはじめとした文化状況、ある日系人デザイナーとの交流などを、当時和田さんが手がけた広告の図版とともにお楽しみください。また本邦初公開となる「DRIVE 1963」は、篠山紀信氏や細谷巖(現・ライト・パブリシティ社長)氏ら当時の「ライト」の同僚と伊豆の修善寺までドライブする様子を、和田さんが8ミリ撮影したもので、そのころに横溢していた熱気や若かりし頃の和田さんの姿を知ることができます。