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 望郷のバラード
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 敗戦から65年。戦争の記憶が年々風化していくことを危惧する声が少なくありません。抗いがたい大きな時の流れなのだから致し方ない、といった見方もありますが、私には、あの戦争の実相はまだ明らかにされていないという不満のほうが強くあります。それだけに、「風化」を容認するのではなく、むしろいまのうちにこそ、あの戦争をいろいろな角度から検証し、それを手がかりに日本、あるいは日本人について考えることが必要なのではないかと感じています。

 この1週間は、いくつかのテレビ・ドキュメンタリー番組を見るように心がけました。NHKスペシャルの「封印された原爆報告書」(8月6日)、同「引き裂かれた歳月~証言記録シベリア抑留~」(8月8日)、同「玉砕 隠された真実」(8月12日)、また「生命(inochi)~孤高の画家吉田堅治の世界」(8月9日、NHK)などです。「封印された原爆報告書」は深夜枠の再放送でも見ましたが、広島への原爆投下の直後から、陸軍省医務局の指揮の下、総勢1300人もの日本人医師、科学者らによる調査団が被爆実態の綿密な調査(治療ではなく原爆が人体に与える影響を「モルモット」観察のように調べる)を行っていたこと、かつその膨大な調査報告書がすべて、アメリカ国立公文書館のGHQ機密資料の中に眠っていた事実が明らかにされます。唖然とするのは、被爆者の医学的所見、死傷者のデータ、被害の生々しい報告などが、被爆者救済のために活かされるのではなく、原爆の「効果」を知りたがっていたアメリカの意向を先取りする形で、日本人自らが申し出てアメリカ側に提供されていたという事実でした。原爆がどれだけの人を殺傷できるか。17000人の子どもを対象としたデータからは、爆心地からの距離と死者の割合を示した「世界初」の実証的なグラフ「死亡率曲線」が導かれます。つまり、国の粋を集めて行なった日本の原爆調査は、被爆犠牲者を利用した外交カードとして使われ、その後のアメリカの核戦略の礎となったのです。「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の協力の“賜物”です。貴重な情報を提供してくれたのですから」という日系アメリカ人研究者の証言には、言葉を失います。こうした事実の重さは、「記憶の風化」などと言って簡単にやり過ごしていいものとは思えません。おそらくまだ他にも、知られざる事実、隠蔽された真実、葬られようとしている何かがあると想像しないわけにはいきません。

 一方、まったく逆の意味で、自分の知らなかった歴史的秘話に出会うという幸運にも、最近恵まれました。いまから5年前に「終戦60年記念」として作られた番組のことを聞いたのは、ふとした偶然からでした。6月末、三島由紀夫の戯曲を元にしたオペラ『鹿鳴館』を新国立劇場で観た帰りでした。ぴあ株式会社の矢内廣社長から、あるドキュメンタリー・ドラマの話を聞いたのです。彼自身がある出会いから、その番組の成立に関わることになったといいます。そのドラマを、昨晩ようやく観ることができました。NHKスペシャル「望郷」という番組です(2005年5月7日放送)。脚本・演出は岡崎榮さん。きっとご覧になった方も多いのではないかと思います。

 番組の冒頭に流れるのは「望郷のバラード」です。ルーマニアの作曲家チプリアン・ポルムベスク(1853~1883)が1880年に作った名曲で、哀愁を帯びたメロディーは熱く、切なく、深く心にしみてきます。日本ではヴァイオリニストの天満敦子さんが、どの演奏会でも必ず演奏することで知られています。この曲をライト・モチーフにした高樹のぶ子さんの『百年の預言』(新潮文庫)という小説もあります。

 ルーマニアの歴史とは近隣の列強に翻弄された苦難の道のりでした。オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった時代、ウィーンに学びブルックナーの弟子として将来を嘱望されていたポルムベスクでしたが、独立運動に参加して投獄され、29歳の若さでこの世を去ります。その彼が、獄中で故国の恋人に思いを寄せながら作曲したのが「望郷のバラード」だと言われています。

 その旋律が、「60年近くも前の遠い記憶をよみがえらせる」――というところから、このドラマは始まります。この曲を主人公である渡辺俊男さんに教えてくれたのは、ルーマニア人のアナトリエ・アールヒップという人でした。ふたりの出会いは、第2次世界大戦直後の1946年初め、ソ連・シベリアのエラブカ第97捕虜収容所でした。

 シベリア抑留生活で日本人が強いられた悲劇的な状況はよく知られていますが、ルーマニア人の立場も複雑でした。戦争の勃発とともに当初は枢軸国側として参戦したルーマニアは、ドイツ軍とともにソ連戦を戦い、いったんはソ連に占領されていた地域を奪還します。しかしドイツ軍の敗色が濃くなるにつれて、再度ソ連に侵攻され、アールヒップ氏はこの時捕虜となります。その直後、国内では政変が起き、ルーマニアは連合国側に立場を変えてドイツに宣戦布告します。ところが終戦後、アールヒップ氏は解放されるどころか、シベリアの収容所送りとなります。そしてソ連側からは敗戦国のように扱われ、一方、収容所の運営を仕切るドイツ人捕虜(ヨーロッパ戦線から、ハンガリー人らとともに送られてきていました)には「裏切り者」扱いされ、「反ソ的分子」として当局への「密告」の対象にされます。氏の立場は、実に孤独なものでした。

 ふとしたきっかけから、軍医だった渡辺氏との間で、ドイツ語による会話が交わされるようになります。故郷の話、家族の話……次第に心を通わせるようになったふたりの間に、友情と呼べる何かが生まれてきます。

「知っていますか、あの曲。あれはバラーダ、私の国の曲です」とアールヒップ氏が言います。「100年以上前に、私たちの国の作曲家が作った曲。弾いているのはドイツ人捕虜です。手製のヴァイオリンを持って入所してきた彼に、楽譜を渡して演奏してほしいと頼んだのです」と。それが「望郷のバラード」でした。

 大切にしている指輪は「ブカレストにいる婚約者のオルガから、戦争に出る前に渡されたものだ」という告白も聞きます。「私有財産調査の時も、これだけは隠し切った」とも。アールヒップ氏は渡辺さんに忠告もします。「靴だけは大切にして盗まれないように! 自分は寝るとき、靴を枕にする。トシオもそうしたほうがいい。靴がなければ脱走もできない」

 栄養失調。酷寒。病人や死者が続出する中で、誰しもが「生きて帰国する」ことへの希望と絶望に引き裂かれていきます。これ以上ない過酷な条件下での生活が、いつ終わるともなく続きます。そうしたある夜、アールヒップさんがひそかに訪ねてきます。「明日、自分はここを出る。自分を憎むドイツ兵の密告があったようだ。もっと奥地の収容所に移される。そこへ行けば生きて帰れない」。彼はひとつの頼みごとをします。「もし無事に日本へ帰れたならば、お話しした婚約者のオルガに、この指輪を届けてほしい。そして彼女に私の愛を伝えてほしい。アナトリエはいつまでも愛していると。ソ連に見つかれば没収です。大変なお願いをしてすみません。でも、あなただけが頼りです」

 翌日、脱走を企てた人間がいると聞かされます。アールヒップ氏は捕えられていました。それきり、彼の消息は絶えました。

 渡辺さんが帰国したのは1948年です。そこから41年の歳月が過ぎ、いまや悠々自適の生活を送る渡辺さんは、チャウシェスク政権の崩壊、ルーマニアの激動を伝える新聞報道を見ながら、遠い記憶を蘇らせていました。アールヒップさんに託された指輪は、もう手元にはありませんでした。収容所でも必死で守り通そうとしたのですが、ある日、シラミの一斉駆除のために上着が集められたのです。上着のボタン裏に縫い付けてあった指輪は、戻ってきた上着のそこにはありませんでした。

 そんなある日、郷里から手紙が回送されてきます。宛先に「大日本帝国」とありました。収容所でアールヒップさんに日本の住所を書いて渡したことが頭をよぎります。彼は生きていたのです。

 それから数年、実際にアールヒップさんと連絡がつき、渡辺さんがルーマニアを訪ねるまでには紆余曲折がありました。アールヒップさんの所在がようやく突き止められた時、氏は83歳、脳梗塞と腎臓病のために病床にあり、「もはや正常な意識がない」との気がかりな知らせも届いていました。はたして「本当に自分を分かってくれるだろうか」という不安を抱えた旅立ちとなりました。2002年8月、このブカレスト訪問に同行したひとりが、渡辺さんと20年来の友人である「ぴあ」の矢内さんでした。

 一行は病院に向かいました。病室で迎えてくれたのは、オルガさんでした。アールヒップ夫人となっていました。そして56年ぶりの再会。ベッドに横たわったアールヒップ氏の胸の上で号泣する渡辺さんに、氏は穏やかな微笑を浮かべます。オルガ夫人が言います。「渡辺さんのことは何回も何回も話していた」と。渡辺さんは失った指輪のことを夫人に詫びます。夫人は応えます。「(いえ)何もなくしていません」。そうした一部始終を、矢内さんの準備したホームビデオが撮影していました。貴重な記録となりました。

 その2ヵ月後、アールヒップさんの訃報が届きます。

 2年後、2度目のブカレスト行きは辛い旅となりました。追い討ちをかけるように、会えると思っていたオルガ夫人が、夫の後を追うように亡くなっていたことを現地で知ります。真新しいアールヒップ家の墓に「ANATOLIE ARHIP 1919-2002」の文字が刻まれています。墓に向かって、渡辺さんの独白が続きます。「(戦争に)負けたことを感謝できるのは、あんたと会ったことだけだ」「不思議な縁だったね。何も知らない君とこんなに親しくなるとは」「しかし、われわれは勇敢に戦ったね。その報いが全部、世界の幸福のためになるんだよ、君」

「あってはならない戦争が終わって60年。アールヒップさんとの国境を越えた友情がたしかにそこにありました」と番組は結ばれます。こういう感動的な物語もまだ、どこかにきっと埋もれているのではないかと思います。

                 *** 渡辺俊男さんは、番組放送の2年後、2007年8月18日に逝去されました。合掌。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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