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 「122対0」からの出発
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 今月4日に東北新幹線が八戸駅から新青森駅まで延伸するというニュースを聞きながら、ずいぶん青森はあちこち歩いたなぁと思い返しました。八戸、三沢、六ヶ所、そして下北半島、津軽半島、三内丸山遺跡や青森市周辺、弘前、五能線の各駅、八甲田山、白神山地……。“旅の友”とした本でいえば、太宰治の『津軽』に始まり、イザベラ・バード、菅江真澄、司馬遼太郎の『北のまほろば』等々、読みながら訪ね、訪ねながら読むということを何年間か繰り返しました。瀬戸内がルーツの私にとっては、北の地は風土的にも歴史的にもロマンをかき立てる異郷。ここしばらくすっかり足が遠のいているのですが、ふと、ある新聞記事の切抜きを探してみる気になりました。

 すぐにそれは見つかりました。1998年7月19日の朝日新聞朝刊。「高校野球青森大会 122対0 勝敗超え激闘」の記事です。覚えておられる方もあろうかと思いますが、その前日に行なわれた夏の甲子園の青森県予選「東奥義塾-深浦」の試合は、後にも先にも例のない、そして将来も決して破られることがないであろう122対0という大差がつきました。この夏はあの松坂大輔が横浜高校のエースとして“甲子園春夏連覇”という劇的な優勝を遂げた年です。後生大事に、なぜそんな記事を取っているのか、といえば、その前年に日本海に沈む深浦名物の夕陽を見るためにこの町を訪れていたからでした。五能線を途中下車して、滞在時間はわずかでしたが、ブラブラ歩いた町の風景は心に残りました。おそらく二度と来ることはないだろうな、と思いながら。

 そこの高校がとんでもない記録を作った、という記事は、なぜかそのままにしておけない気がして、切り抜いてデスクの引き出しに入れてありました。数年後、この試合を題材にしたノンフィクションが書かれたことは知っていましたが、実際にそれを手に取ったのは昨年のこと。講談社文庫の『122対0の青春 深浦高校野球部物語』(川井龍介)です。

 一読して、当日の雰囲気、なぜああいう試合になってしまったのかという背景や理由がよく分かりました。野球部を中心とした人間模様や、深浦という町が置かれた現実も理解できました。しかし驚いたのは、この著者が本を書いた後も野球部員たちと交流を保っていることで、文庫本には「二〇〇二年春から――学校と彼らはその後……」が終章として加筆されていました。さっそく著者に会ってそのことを聞くと、いまでも夏の大会は毎年見に行っていると言われ、さらに驚かされました。2007年に分校化されて名前も「県立木造高校深浦校舎」となり、生徒数も激減した小さな学校の野球部の戦いを、去年も、そして今年も青森まで足を運んで見続けているのでした。

http://kaze.shinshomap.info/special/25/02.html

 それほどまでに、何がこの筆者を引きつけるのか。「相手の実力や力の差などには無頓着に、自分たちのスタイルを守りながら、黙々と立ち向かっていく彼らの姿に、笑いたくなるくらいの素朴さ、純粋さ、世間知らずとも言える清々しさを見て取った」というのですが、それはとりもなおさず、自分たちの身のまわりから失われていく何かを、ただなす術もなく惜しむ他ないやるせなさ、はがゆさに通じます。

 陸の孤島と言われる日本海沿いの田舎町。「深浦校舎」の生徒数はもはや69人、教師13人中9人が臨時講師だといいます。小中学生のほぼ半数は母子家庭で、仕事のない夫と別れて実家で暮らす母子が多いそうです。「格差社会」という言葉自体がむなしく響くような過疎の実態です。しかし、野球部員12人は今年も夏の県大会を戦いました。結果は初戦に11-3で敗れましたが、全校生徒と有志でつくる応援団の数は、むしろあの当時とは比べものにならないくらい増えてきているそうです。そんな話を聞いていると、深浦という町がぐっと自分に迫ってきて、ますます青森のシンボリックな風景として思い浮かぶようになってきました。 

 ところで12年前の試合ですが、記録はこう伝えています。試合時間3時間47分(7回コールド)。深浦の3投手の投球数は計475球。被安打86(うち7本塁打)。被盗塁76。奪われた点は初回に39点、そこから10点、11点、17点、16点、12点、17点の計122点。93-0となった5回終了時点で、監督は「試合放棄」を選手に提案したそうです。ところが、三年生のひとりが「やめてもいいんだばって、ここまで応援してくれる人いたしなー、このままつづけたほうがいいべ」と答えたことで、チームの気持ちは決まったといいます。一方、「気を抜くのは失礼だと思った」という東奥義塾は最後まで攻撃の手を緩めませんでした。深浦は結局「打数20、三振16、四死球5、安打・盗塁はゼロ」に終わり、東奥義塾側にのみ普通の試合ではあり得ない桁外れのスコアが残されました。

 翌日からは、試合をめぐってさまざまな議論が巻き起こりました。「最後まで戦い終えたのは偉い」「よく頑張った」という賛辞から「そんなに弱いなら出るべきではなかった」「恥ずかしい」という批判。東奥義塾に対しても「手を抜かなかったのは立派だ」という肯定論から「何もそこまでやらなくても」という意見まで、全国的に大きな話題となりました。実力校であった東奥義塾が、次の試合でよもやのコールド負けを喫するという予想外の展開となったことも拍車をかけました。しかし、事後的に“外野”で起きたそれらの議論とは無関係に、川井さんの著書に描かれた選手たちの姿は印象的です。最後まで各打者が思い切り打ち、走る東奥義塾の選手たち。終盤になっても、チャンスと見れば盗塁を仕掛けます。一方、深浦ナインも必死で球を追いかけます。暴投やパスボールで後ろに転がるボールを何度も取りに走る捕手の姿は、バックネット裏の記者たちの胸を打ちます。「あの捕手はすごかった」と球審も口を揃えます。記録上、深浦の暴投、パスボールは計35個。キャッチャーは少なくともバックネットとホームベースの間を、35回必死で往復したことになります。後逸したボールを繰り返し追う捕手の真っ赤な表情を見て、東奥義塾の選手たちは心のなかで「がんばれ」とつぶやき、戻ってくる彼にキャッチャーマスクを拾って手渡したといいます。

 空前絶後のコールド負けは、田舎町を突然喧騒の嵐に巻き込みましたが、そこは陸の孤島、いつしか風は凪いで、深浦高校野球部はまた彼らなりのペースで野球を続けます。翌年は「54対0」の惨敗。青春ドラマのように簡単に勝利を手にすることはできません。そして大敗の日に野球部員10人中6人を占めていた一年生も、2年後には卒業の日を迎えます。「深浦の夕陽のように、真っ赤に燃えた精神で、どんな波にも打ち勝って行きます」という生徒会長の答辞を聞いた彼らのうち、ひとりとして深浦に残る者はいませんでした。35回、バックネットまで球を追いかけた捕手は秋田大学に進学。就職、専門学校という違いはあっても、全員が東京や青森県内の都市へと向かいました。

 それから10年、深浦を離れ、時々故郷の町へ戻る彼らの目に、母校や町の変わり行く姿はどのように映っているのか、と考えざるを得ません。「卒業後の彼らは、高校時代野球で体験したよりはるかに大きな苦労を背負いながら走り続けるのに精一杯でもある。後ろを振り返るゆとりはない」というのは確かでしょう。しかし、「122対0」の中でも自分を見失わなかった彼らの姿に、高校野球という次元を超えたメッセージを読んだ人は少なくなかったと思います。現に、いまなお「深浦校舎野球部」の足跡を追うことに自分の“使命”を見ている川井さんのような人がいるわけです。決してノスタルジーでもセンチメンタリズムでもなく、いまここで起きている何かをきちんと見届けようという共感がそこにはあると思います。あの日、スタンドから敵味方関係なく送られた声援や拍手に、「やるべ、やるべ」と応えてグラウンドに散っていった選手たちの姿は、深浦の町のみならず、あの試合を何らかの形で「体験」した人たちの心の拠り所になっているはずです。

 新青森駅から深浦まで、夕陽に間に合うためには、昼前に出て乗り継ぎで4時間30分ほどの行程になるようです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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