【考える本棚】
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 服部文祥『百年前の山を旅する』(東京新聞)
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時代を超えた追尾調査------------------------------------------------------------------------

「考える人」の次号から、東京大学大学院教授の佐倉統さんに「『便利』は人間を不幸にするのですか?」という新連載をお願いしています。人間がもつ無限の欲望に突き動かされながら、科学技術はたゆまぬ進歩を遂げてきました。私たちはその恩恵にしっかりあずかりながら、この流れが続くことを切に願っています。しかしその一方で、便利さと引き換えに何か本質的なものを見失っているのではないか、あるいは便利さの飽和が新たな問題を引き起こしているのではないか、と不安を覚えていることも事実です。今後、私たちはどのように便利さと向き合いながら生きていけばいいのか、社会と技術の関係はどうあるべきなのか、佐倉さんにはそのあたりをお書きいただきたいと思っています。

 その初回の原稿を興味深く読みながら、ふと思い出したのがこの本でした。いま発売中の「考える人」2011年冬号の特集「紀行文学を読もう」の中で、探検家・写真家の石川直樹さんが印象的に紹介してくれている一冊です。

〈現代における肉体的な冒険の最先端はどこにあるのだろうか。辺境の地を縦断することや、未踏の山を初登頂するような遠征ができなくなった時代、より純粋な体験を求めて山に入る者もいる。服部文祥は、そうした行動と表現の強度を同時に高められる希有な書き手である。登山の難易度だけでいえばエベレストよりもはるかに難しい世界第二位の高峰K2をはじめ、国内外で数々の登攀を成功させてきた彼が、最終的に行き着いたのが、装備を切り詰めて食料を現地調達する「サバイバル登山」だった。食料を得る手段は山菜採りや魚釣りなどいろいろあるが、最近になって彼は鉄砲による狩猟を取り入れて、より積極的に野山と関わりをもっている。 その服部の最新作が『百年前の山を旅する』である〉

 服部さんにとって、登山とはすなわち、できる限り道具や他人の干渉を排して、「自分の力であるがままの山に入る行為」に他なりません。したがって山行は、まずソロ(単独行)が原則です。そして、「電気機器やテント、コンロ、燃料は持たず、米と調味料を背に、山菜を取り、岩魚を釣りながら」、そして近年は猟銃で獲物を仕留めながらの登山を実践しています。また、人間の決めたルールから逃れて(つまり登山道を避けて)「あるがままの山」に入ろうとすると、渓、すなわち川の上流部である沢がその入口になるといいます。林道が途切れ、落ち葉を敷きつめた柔らかい地面にいわゆるケモノ道が続き、それはかつて山人たちが歩いた「いにしえの道」と交差します。この滅び行く山の古道に分け入る時が、著者にとっての登山の始まりです。「山に入るとき独特の淡い恐怖感」――「街のぬくもりが背後に遠ざかっていき、そのぶん、自分が自分のものになっていく」瞬間の感覚を突き詰めながら、「体験の純度」を上げ、「生き物本来の自由」に迫りたいというのが、サバイバル登山のモチーフです。

 本書はそういう服部さんの情熱から発した新たな実験の報告です。全体としては、まだ途中経過の段階にあることは著者自身が認めていますが、「発想がなければ行為はなく、行為がなければそれにともなう感情もない」というきわめて探検家らしい姿勢で挑んだ旅の記録は、いずれも貴重です。共通するのは、昔の山人のようにできる限り生身で山に入り、徒手空拳で自然と渡り合って「正しい山登りの手応え」を自分の身体で追体験したいという衝迫です。

 冒頭は「一〇〇年前の装備で山に入る」という「奥多摩・笹尾根縦走」です。これは1909年(明治42年)5月に、後に登山家として、また日本を代表する山岳文学の書き手として名を成した田部重治(たなべじゅうじ)と編集者の木暮理太郎の二人が行なった画期的な登山――尾根づたいに山頂をつないで山を旅する、つまり「縦走」という革命的な登山の方法をこの時に生み出した――を、ちょうど100年後に、同じルート、同じ「足回りや服装、寝具、食料」で辿ってみようという試みです。当然、ゴアテックスの雨具も、テントもなし。ヘッドランプも、寝具も、リュックも、水筒さえもなく、地図すら持たなかった彼らの装備にならいます。「和服に鳥打帽、股引に脚はん、わらじ、着ござ、一方の肩にかけるかばん、かばんには各自の小さな鍋とシャツ」(田部重治『わが山旅五十年』)という記述に似せた服装で、時計もあえてゼンマイ式のものを身につけて、食料は米一升と佃煮だけを携行し、時代を超えた“追尾調査”に出発します。

 野営地では、夜半に降り始めた雪が次第に強くなっていく中、着のみ着のままで着ゴザに身を横たえた筆者は、眠れない夜を過ごしながら、田部と木暮のことに思いを馳せます。彼らが何を感じ、何を考えていたのか、少しでもその心境に近づきたいと願います。翌日、積もった雪を地下足袋で踏みしめながら山歩きを続けますが、残念ながら雪の状況を勘案して、この旅は途中で打ち切ります。だが、実際に体験してみることで、著者には現代人である自分と、過去の登山家とを決定的に隔てているものが見えてきます。

 それは「肉体的なちがいではなく、その肉体をどう使うのかという世界観が現代と一〇〇年前とは根本的にちがう」ということでした。移動可能な距離についての概念や感覚がそうです。発達した交通機関によって、現代人が「移動にともなう時間と労力を省略することに慣れ親しんで」いるのに対して、移動手段が「自分の足しかない」二人は、とてつもない長距離歩行をも意に介さず、地図に頼ることもなく、自分の目で山を見て、その連なりのさらに「その先を見てみたい」という探究心に身をゆだねて山を旅していたのです。「何とも優雅で自由ではないか。男前とはこういうことをいうのだろう」

 逆に言えば、便利さに囲まれた環境の中で、現代人の心身は思いのほか呪縛されている、ということです。「便利で楽になった。だがそれで旅が面白くなるわけではない。文明は勝手に押し寄せてきて、時にわれわれを窮屈にもする。問題は文明の影響力ではなく、われわれがそれをほとんど自覚せずに受け入れていることである」「われわれ現代人の思考展開は、良きにつけ悪しきにつけ、現代的であり、そのことに関してあまりにも無自覚である。山が文明に冒されていなかった時代の山登りを通して、私はそのことを強く意識させられた」。

“遊び心”もあって企画されたタイムスリップでしたが、実際にその現場に行き、過去に山で活動した人々と同じ体験をすることで、彼らの考え方や感じ方に近づきました。そして過去の山人たちが「現代のわれわれより発想も行動も自由なうえ、山と深く関わっているということ」を、「びんびん感じさせられた」というのが著者の結論です。本書はそうした真剣な“遊び”を7つのコースで愚直に試みたレポートです。

 著者については、昨年10月31日にテレビ番組「情熱大陸」で衝撃的な映像が流れて、かなり話題を呼びました。インターネットで見ると、視聴者の意見は大きく分かれたようです。賛否両論が起きたことは容易に想像できます。特に番組の冒頭で、横浜の自宅の居間にイノシシの生首がゴロンと転がっている場面が紹介され、それを服部さんの家族が当たり前のように受け入れていることへの驚きがありました。さらには山に入った服部さんの狩猟場面の生々しさ。獲物を追う表情、鹿を仕留めた瞬間の服部さんの咆哮。鹿の解体、肉を食らう姿……「何もここまでリアルに見せなくても……」と感じた人たち、「これ放送しちゃだめな奴じゃ」「あの雄叫びは快楽殺人者にしか見えなかった」「ヤバイ人にしか見えなかった」というインターネット掲示板への書き込み……。

 さらにまた現実に発生した思いも寄らぬ滑落事故――単独行が原則であった服部さんが沢登りで30メートル滑落し、番組の取材で同行したカメラマンの介抱がなければ一命を落としていたかもしれない――の幕切れはあまりに強烈で、視聴者にはありきたりのドキュメンタリー番組とはまったく異質の衝撃が走ったことは間違いありません。

 しかし結論を急げば、私はこの番組作りのフェアな姿勢に好感を抱きました。服部さんという本質的な行為者に真摯に向き合おうとしている覚悟を評価したいと思いました。狩猟論については、この本のテーマから外れるので詳しく触れませんが、服部さんが近年「鹿を撃つことは必ずしも残酷だとはいえない」と主張していることは、人間としての「謙虚さ」を逆説的に語っていると私なりに理解しています。

 ともあれ、登山の思想的な役割を追求し、一身を賭して現代文明に挑発的な問いを投げかけている著者の動向からは、当分目が放せないと思っています。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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