内田樹さんの新刊『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)が話題になっています。本書は「文學界」での連載がもとになっていますが、この連載を毎号心待ちにし、愛読していたのが養老孟司さんでした。『私家版・ユダヤ文化論』がきっかけになり、大阪と箱根で泊まりがけの長時間対談が実現しました。前号ではその前編を、今回はその後編となる完結編をお送りいたします。

 ユダヤ文化論、と聞くだけで「面白そうだ」と思う人と、「なんだか遠い話なんだろうな」と腰が引ける人と、ふた通りの反応が想像される気がします。連日報道されている、レバノンへのイスラエルからの攻撃について、私たちはいったい何を、どのように認識でき、何が言えるのか。真正面から問われたら、立ちすくみ、言葉が出てこない人のほうが多いのではないでしょうか。それほど中東の問題は、歴史と宗教と民族問題が絡み合う、「手がつけられない」と思わせるに充分なほど、複雑できつい固結びの連続になっている、と見えるのです。

 しかし、そこにこそ問題の落とし穴があるのです。「複雑できつい固結び」だと思いこんでしまった瞬間に、そこで思考は停止してしまうからです。今回の対談は、それほどユダヤ人問題は「複雑できつい固結び」なのだろうか、という地点にまずは引き返し、その出発点から考え始めている、と言えばいいのかもしれません。

 つまり、「ユダヤ人問題を考える」ということそのものが、「考えるとはどういうことなのか」という問いに直結しているのです。お二人のやりとりから、一部引用しておくことにしましょう。

養老 こういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。簡単には片付かないけど、とんでもない答えが突然に出てきたりする。
 ものを考える、考えないというのは、そういうことをいくつ抱えているかじゃないでしょうか。そういうことをどこまで忘れないかにかかってくるともいえます。
内田 ぼくは、それを「デスクトップに並べておく」と呼んでいるんです。自分の意識の「デスクトップ」にいくつの未整理ファイルを載せていられるか。どれだけデスクトップが散乱している状態に耐えられるか。これがけっこうポイントだと思うんです。
 整理したがる人は解決できない情報でも「未整理ファイル」というタグをつけて整理してしまう。でも、一度ファイルしてしまうともう意識にのぼってこないんですよね。問題というのは、デスクに載っていて「ああ、まだ片付かない。やだなあ、困ったなあ、めんどくさいなあ」といつもこちらのストレスの種になっているからこそ「問題」として機能しているわけで。

 次号の特集「家族が大事 イスラームのふつうの暮らし」にもつながってゆくような、刺戟的な対話です。ご一読ください。