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 見るたびに大きくなる「塔」
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 今年は岡本太郎生誕100年ということもあって、企画展やいろいろな出版物が目白押しの賑わいです。日曜日の午後、東京国立近代美術館で開催中の「岡本太郎展」に出かけてきました。予想もし、ある程度覚悟もしていたのですが、それをはるかに上回る人出でした。「切符を買うまで10分待ち」、「入場するまで20分待ち」というプラカードを持った係員が立つほどで、いまさらながら岡本太郎ブームの凄まじさに驚きました。若い人たちが多いことにも目を惹かれました。

 展覧会そのものは、岡本太郎の歩みを時系列的に追った構成になっていて、会場を一巡するにしたがって、その時代、時代に太郎が何と「対決」しながら芸術的な足跡を刻んでいったのかが分かりやすく紹介されています。「ピカソとの対決(パリ時代)」、「『きれい』な芸術との対決(対極主義)」、「『わび・さび』との対決(日本再発見)」、「『人類の進歩と調和』との対決(大阪万博)」、「戦争との対決(明日の神話)」、「消費社会との対決(パブリックアート、デザイン、マスメディア)」、「岡本太郎との対決」の7つの章に区切られ、従来だと展示の対象にはなり得ないはずの、「芸術は爆発だ!」で話題を呼んだ1981年のテレビCMや、タモリの番組に出演した際の映像までが流されていました。今回の企画に対する美術館側の明確なスタンスが表れていて、興味深く思えました。

 ただ、生誕100年というよりも、没後15年と言われたほうが個人的にはピンときます。1996年1月7日に彼が亡くなった時は、ずっと気にかかる存在だっただけに、死去に反応する人が意外に少ないという印象を受けました。1970年の大阪万博で「太陽の塔」を作った人、という過去形の扱いで、ほとんどの著作も絶版品切れの状態でした。さまざまな雑誌が彼の誕生日(2月26日)に合わせて特集を組み、『岡本太郎の宇宙』全5巻(ちくま学芸文庫)の刊行が2月から始まるなど、いまの盛況ぶりを見ると隔世の感があります。

 彼の生き方や存在そのものが、この閉塞感のある時代に希望や勇気の源泉として多くの人たちをひきつけていることは疑いありませんが、ここへ至るまでの最大の功労者は、なんと言っても、個人秘書をながく務め、後に養女となった岡本敏子さんを措いて他にはありません。生前から太郎の分身であり、芸術家人生の“戦友”でもあった彼女が、太郎没後に見せた岡本太郎再評価へ向けた献身は並はずれたものでした。著作の復刊、再編集を精力的にこなす一方で、自らも積極的に情報発信しました。そして1998年には青山のアトリエを整備した岡本太郎記念館を開き、また翌年には岡本作品の大部分を寄贈し準備を進めてきた川崎市に、岡本太郎美術館の開館を実現します。敏子さんは2005年に亡くなりますが、そうした彼女の努力の甲斐あって、太郎の仕事はさまざまな視点から跡づけされ、再評価の気運が急速に高まってきました。

 その意味で私にとって幸運だったのは、気鋭の美術評論家である椹木野衣(さわらぎのい)さんに、「黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本」という連載をお願いできたことでした(「中央公論」2002年1月号-2003年1月号。後に中央公論新社より単行本として刊行)。

 いま見ても刺激的な「芸術は爆発だ!」のCM以降の岡本太郎は、「かわったおじさん」「わけのわからない芸術家」として、バラエティ番組などですっかり「お笑い」の対象となってしまうのですが、それをまったく笑えないで見ていた私は、たまにパーティなどで出会う岡本太郎が、周囲から際立って浮いている(それを少しも本人は意に介していないふうである)ことに違和感、というか抵抗感を覚え続けていました。それが意図的なのか、そうとしか振舞えないのか、その謎がずっと未消化のままに身体に残留している感じでした。

 それが椹木さんの論考によって、かなりのことに整理がつき、岡本太郎という存在へのパースペクティブを得ることができました。1930年代のパリで彼が出会ったピカソの作品、シュルレアリスムの洗礼、それにもまして芸術上の強烈な影響を受けたジョルジュ・バタイユとの交流、あるいはパリ大学でマルセル・モースに民族学を学び、それが後の日本文化再発見の起点となって縄文土器や沖縄文化との出会いが生れたこと。さらにそれらの体験が基盤となり、芸術と民族学というふたつのエネルギーがぶつかりあい、炸裂したひとつの頂点として、大阪万博における「太陽の塔」をめぐるテーマ展示の成立がある、という物語は、ドラマチックでスリリングな知的興奮を与えてくれました。

 そもそも万博のテーマ館プロデューサーに就任する時から、自分は「人類の進歩と調和」という万博のテーマには反対だ、と公言して憚らなかったのが岡本太郎です。「人類は進歩なんかしていない」「縄文土器の凄さを見ろ。ラスコーの壁画だって、ツタンカーメンだって、いまの人間にあんなもの作れるか」「“調和”と言うが、みんなが少しずつ自分を殺して、頭を下げあって……それで馴れあってる調和なんて卑しい」「ガンガンとフェアーに相手とぶつかりあって、闘って、そこに生まれるのが本当の調和なんだ。まず闘わなければ調和は生まれない」と主張していたのが太郎です。当時は万博に反対する「反博」の動きも一種の流行でしたが、「反博? なに言ってんだい」と鼻で笑い、一番の「反博」はベラボーな塔を作る自分こそだ、とうそぶいていたといいます(岡本敏子『岡本太郎に乾杯』新潮文庫)。

 ともかく、その内部にテーマ展示を収容するはずだったお祭り広場の巨大な「大屋根」をいきなりあの塔がぶち抜いてしまいました。あまりに破天荒なことの連続に、世の中も半ばあっけに取られて見守るしかありませんでした。「芸術家のやることは、これだからわからない」というのが、市井の人々の素朴な感想でした。ところが、今回、当時の映像に接してみると、太郎の下に集まった若いクリエイターたち(小松左京、黒川紀章ら)が実に生き生きと彼の熱弁に耳を傾けている姿がありました。みんな若くて、エネルギーにあふれています。なるほど、こういうパワーの結集が、あの根源的な祝祭空間を生み出したのか、と初めて得心のいく思いがしました。

 そして、ふと思ったのは、いわゆる「目玉男」事件です。万博開催中の4月26日から5月3日まで、およそ1週間にわたって「赤軍」と書かれたヘルメットをかぶった若者が、「太陽の塔」の「黄金の顔」の右目部分に立てこもりました。いまでは忘れた人がほとんどだと思いますが、連日このニュースが流れる度に、妙にザラザラした感じで、気持ちが波立ったのを覚えています。しかし、考えてみれば、一番の「反博」は自分こそだと言ったのは太郎であるわけで、その意味であの「塔」は万博自体を異化する目的で仕掛けられた、いわば近代に対する土俗的な“テロ”のようなものだったと言えます。つまり、「目玉男」はたんに「反博」の意を世にアピールしたいというよりも「もっと原初的な衝動」に突き動かされていたのではなかったか。むしろ「太陽の塔」にこそ「目玉男を呼びよせる何かが備わっていた」のではないか、というのが、椹木野衣さんの見立てです。

 さて、このところ岡本太郎が気になるもうひとつの理由は、次号の特集で考えている梅棹忠夫さんとの関係です。梅棹さんが実は、万博のチーフ・プロデユーサーに岡本太郎氏を推薦していたということは、意外に知られていない事実です。さらにその一方で、万博跡地を利用してできた現在の国立民族学博物館設立の、最初のきっかけを岡本太郎が作っていたと知ると、驚きはさらに大きくなります。EEMと略称される「日本万国博覧会世界民族資料調査収集団」が結成されたのは1968年です。テーマ館の地下に展示される民族学資料を、世界各地から収集することを目的に作られた組織で、東大の泉靖一研究室と京大の梅棹忠夫研究室のメンバーを中心に、約20人の若手の研究者が「資金をもって、よろこびいさんで」世界中に散らばって行きました(梅棹忠夫『行為と妄想』中公文庫)。

〈テーマ館の地下空間に世界の民族資料を展示するというアイディアは、チーフ・プロデューサーの岡本太郎氏によるものであった。かれはパリ大学で民族学をまなんでおり、民族学にはふかい理解をもっていた。地下空間の民族資料の展示も、かれがみずから手がけたのであった〉(前掲書)

 総数約2600点といわれるこれらの資料は、地下展示の「ちえ」の部分に主として生活道具が陳列され、神秘的で呪術的な空間である「いのり」のパートに、世界の仮面と神像がむき出しのままで吊り下げられたり、立てられたりしました。これらがやがて民博誕生の際の最初のコレクションの礎となりました。さらに面白いことに、このアイディアを太郎が得たのは、パリ留学時代に他ならないと椹木さんは指摘しています。1937年、トロカデロのパリ万国博跡地に開設された人類博物館との出会いがあったからこそだ、と。

〈おそらく、太郎が万博のプロデューサーを手掛けるにあたって、最初に頭をよぎったのも、このときの一連の記憶と体験ではなかったろうか。自分の人生の大きな転機となった人類博物館が、パリ万博の遺産として生まれたように、大阪万博の遺産として、日本にも同様の博物館を設立することはできないかという考えだ。岡本太郎の頭の中では、万博とその跡地に設立されるべき博物館とのあいだには、はじめからひとつの強い結びつきが存在していた〉(『黒い太陽と赤いカニ 岡本太郎の日本』)

 一方の梅棹さんは、「わたし自身は万国博にも博物館促進運動にも両方に関係しながら、その二つはわたしの頭のなかでは別のことであって、両者をむすびつけてかんがえるという発想はまったくなかった」とふりかえり、これを結びつけたのは岡本太郎であったと記しています。マルセル・モースに民族学を学び、ジョルジュ・バタイユやミシェル・レリス、ロジェ・カイヨワらと「社会学研究会」で交流していた岡本太郎の記憶と体験が、こうして千里の地に新たな博物館を生み出したとは、これも知的興奮を誘う話です。

 実は、次の日曜日は人を募って民博へ出かける予定です。私にとっては2度目になりますが、いま開催中の「ウメサオタダオ展」を見に行くためです。今回は、せっかくなので万博記念公園を少し歩いて、久々に「太陽の塔」も見て帰ろうという予定です。これもあの「ベラボー」なモニュメントが持つえもいわれぬ魔力のなせるわざです。

 最近では、森見登美彦さんの小説『太陽の塔』(新潮文庫)の主人公のように、「岡本太郎なる人物も、大阪万博という過去のお祭り騒ぎも、あるいは日本の戦後史なども関係がない」にもかかわらず、「なんじゃこりゃあ」と呆れるばかりの大きさと形に圧倒されて、「太陽の塔」に畏怖の念を抱く若い世代が現れてきています。

〈「あれは一度見てみるべきだよ」なんぞと暢気に言っているようでは、全然、からっきし、足りない。 もう一度、もう二度、もう三度、太陽の塔のもとへ立ち帰りたまえ。……「つねに新鮮だ」 そんな優雅な言葉では足りない。つねに異様で、つねに恐ろしく、つねに偉大で、つねに何かがおかしい。何度も訪れるたびに、慣れるどころか、ますます怖くなる。太陽の塔が視界に入ってくるまで待つことが、たまらなく不安になる。その不安が裏切られることはない。いざ見れば、きっと前回より大きな違和感があなたを襲うからだ。太陽の塔は、見るたびに大きくなるだろう。決して小さくはならないのである〉(森見登美彦『太陽の塔』)

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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