【考える本棚】
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 黒川創『きれいな風貌―西村伊作伝―』(新潮社)
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小さくていいもの------------------------------------------------------------------------

 西村伊作――東京・御茶ノ水にある「文化学院」の創設者であり、大正時代を代表する自由主義者。1910年、大逆事件で逮捕され、いわゆる「紀州組」の首魁として処刑された大石誠之助の甥。これまでこの人物について知っていることといえば、せいぜいこの程度の知識でした。ところが、『考える人』2008年夏号から2010年秋号まで連載されたこの評伝を読んで、初めてこの人の生涯に触れる機会を得ました。

 それは、読めば読むほどに「どうしてこういう人物が出現し得たのか」という謎が逆に深まるような不思議な読書体験でした。一方で、「シンプルな暮らし、自分の頭で考える力(plain living & high thinking)」を標榜する雑誌の連載として、これほどふさわしい人物もそういないだろうとも感じさせられました。書名となった「きれいな風貌」の持ち主がどのような環境や背景の下に育ち、どういう人生をめざそうとしたのか。あるいはこの独特な個性が、時代の変遷とともに周囲にいかなる表情を見せていたのか。それを丹念にたどりつつ、類まれなセンスに恵まれ、果敢な意志と行動に生きた、彼の魅力に迫ろうとしたのがこの作品です。

 主人公が生まれ、育ったのは、北に熊野の険しい山々が迫り、南は太平洋に向かって開かれた和歌山県新宮町です。紀州の木材の集散地として、早くから海運の発達した町で、どこへ行くにも海を利用するところから、「東京に行くのも、アメリカに行くのも船で行くのに変りはない」というふうな、独立と進取の気概に富んだ土地柄とされます。

 父方の系統は医家・教育家の多い家系だったようですが、後年、「私は当り前の日本人でない、特別な奇妙な種族に属しているのです」と自ら語っていたように、この家はどうも社会的束縛にとらわれない風があり、周囲からは気位の高い、遺伝的に変わった一族だと見られていたようです。父は本を読むこと、絵を描くことを好み、事業欲も旺盛な、長身の美男子。「私の性格や趣味や考え方などは、どこから来たのであるか――私はその大部分は私の父親から来たのだと信じている」と自伝『我に益あり』で述べていますが、伊作の理想や魂の拠り所を探ろうとすれば、両親とともに過ごした幼時の記憶に行きつくというのが、本書を読みながら感じたことでした。

 ちなみに名前の伊作は、矢内原伊作と同じく、熱心なクリスチャンであった父が旧約聖書のイサクにちなんでつけたものです。ただし、伊作自身は、生涯、信仰を持つことはありませんでした。「父親似だが、そこに母の顔の穏やかさが加わって、女性的な顔立ち」であったという少年は、児童のなかでひとりだけ洋服を着て名古屋の尋常小学校に通っていました。そこに、悲劇が訪れました。M8.0という「日本近代で最大の内陸直下型地震」である濃尾大震災が起こり、両親をいちどきに失います。そして紀州で名だたる山林地主であった母方の家督を7歳で継いだところから、彼の人生は大きく変わり始めます。

 望めば一生を羽振りのいい大旦那として呑気に暮らすこともできたでしょうが、そういう生き方を拒否した伊作は、先祖代々の美林を守り育ててきた祖母からはつましい生活を学び、また医者となって北米から帰国した叔父の大石誠之助からは海外文化や社会正義の息吹を吸収しました。そして東京の丸善から多様なジャンルの本を取り寄せては、字引片手にそれらを読破したといいます。その彼が、絵画制作に続いて、目覚しい才能を発揮したのは建築の分野でした。22歳ごろにバンガロー風の自邸を作ったことを皮切りに、独学で建築をマスターし、徐々に注目を集めます、いまでいえば安藤忠雄さんのような天才なのかもしれません。

 彼の建築が強い支持を受けたのは、家族生活を中心に据えた新しい住まい方の理想を提案したからでした。英国のウィリアム・モリスを日本に紹介した堺利彦らの家庭改良論の影響や、キリストの教えにもとづく生活改善を唱道していた父の記憶もあったと思います。しかし何にもまして「独自に徹底的に考え詰めた成果」として、彼自身の中にやどった「スウィートホーム」の理念を語ったのでした。「私は経済的、社会制度的の理想はあまり持ちませんが、住居の様式生活の、方法で、何か改革してみたいという心が多いのです。……日本人がもっと新らしい方法で生活し、愉快に、快活に、そして野卑でない生活、趣味ある生活の出来る模範を示すために、どこかへ新らしい村を作りたいのです」と述べ、「小さくとも、美しい村を建てたい」と夢見ます(最初の著書『楽しき住家』)。

 豊かな資産に恵まれているからこそこうした活動にも集中できるわけですが、それはいま私たちが想像する以上の反響を得て、伊作はこの時代の輝かしい存在となりました。さらに驚嘆させられるのは、私財を投じ、東京に「文化学院」を創設することです。わが娘を月並みな女学校ではなく、自分の望む環境で教育したいというのが理由でした。独断的、独善的ではありますが、それを実践してしまうのですから凄いと言う他ありません。教育パパとしての横顔を伝える、次のエピソードにも驚かされます。

 伊作は、同郷の詩人佐藤春夫から英訳の『ピノキオ』を借りて、毎晩夕食後に食堂の出窓のところに坐って、日本語に訳しながら子どもたちに聞かせていました。ある時、作文が得意だった10歳の長女に、この物語を書いてみるように勧めます。なかなか書き上がりませんが、その間彼は督励し続け、ようやく原稿が仕上がると、その出版のお膳立てを整えます。日本に初めて「ピノキオ」を紹介するという名誉をになったこの本は、6ヵ月後には5版を重ねるほどの売行きとなり、当時の新聞・雑誌にも大きく取り上げられます。「読売新聞」では「十二の少女の書く童話ピノチヨ 洋画家西村伊作氏のお嬢さん 挿絵も装幀も皆な自分の手で」と写真入りで報じられました。わが子の創造的な芽を伸ばそうという彼の並々ならぬ情熱を感じます。一方でこの父はというと、娘を池の中へさかさまにして沈めたり、三階の窓から逆さ吊りにしたり、いまの親には考えられない厳しい体罰を加えていたようです。その『ピノチヨ』の「はしがき」に、長女があっけらかんと書いています(上坂冬子『愛と反逆の娘たち』、加藤百合『大正の夢の設計家』などによる)。

 私立学校として開設された「文化学院」は、文部省のカリキュラム編成には縛られない独自の教育方針を謳いました。当時としては画期的な男女共学、家政科目なし、軍事教練なし、スポーツも「無用の競争を煽るものとして」伊作は好まず、体操の時間はなく、運動会もなし。講師陣には彼の人脈で多彩な顔ぶれが揃います。与謝野寛・晶子、有島武郎、北原白秋、戸川秋骨、高浜虚子、石井柏亭、山田耕筰、ほかに外国人講師も多数加わります。国からの援助はもとより、父兄からの寄付金も募らず、自らの資産を活用しながら思い通りの学校運営を貫きたい、と彼は考えます。

 関東大震災による焼失をも乗りこえ、戦時色が濃くなる時期にあっても、この学院のアーチ門は時流をそこで食い止めました。御茶ノ水駅から吐き出される人の流れがカーキ色と紺色で占められていた時に、文化学院の女生徒だけは「リボンで髪を飾り、碁盤縞のスカートにピンクや水色のセーターを着て」通学していたというのです。当然、こうした態度が当局を刺激しないはずはありません。不敬罪による伊作の逮捕、そして半年間の拘留。その間に学院には閉鎖命令が下され、建物は陸軍に接収される運命をたどります。

 やがて終戦を迎えて学院は再開されますが、ここからの伊作は次第に学校経営からは身を引き、独立した思索家としての風貌を際立たせていきます。民主主義の世になり、伊作らに迎合的な言葉を吐く人たちには、「これからはマッカーサーに叱られるようなことをする」と言ってのけるツムジ曲がりですが、彼が生涯を通して曲げなかったのは、主義や思想にとらわれることなく、得心がいくまで自分の頭でものを考えるという態度でした。それが彼の思索の放つ魅力でした。

 時として強引で独善的ではありますが、どのような「正義」「大義」にも距離を置き、「自分が自分である」ことを優先した彼の思考は、独特の語彙と論理、隠しごとのない明朗さ、楽天性が特徴です。自伝が『我に益あり』という「ヘンテコな書名」になったのも、どうやら聖書の言葉を牽強付会に「すべてのこと我に益あり」と曲解したものらしく、この「我の強さ」こそが伊作の伊作たる所以です。戦後、学院で始めた「文化教会」と題する講演会で、彼は毎週、生について、記憶について、死のこと、性のこと、イエスの言葉など、「人生の根源に触れる事柄をテーマに選んで、思いを巡らせるまま、飽きることなく話した」といいます。その膨大な速記録に目を通した筆者によれば、「ほかの論者の著作などからの引用がまったくないことが、彼の講演のひとつの特徴をなしていた」といいます。

 同郷のよしみで「文化学院」を支えた佐藤春夫は、1963年、78歳で没した伊作の追悼会で、彼を「フリーシンカー(freethinker)」と表現したそうです。では「我の立場は我」と言い、「我の心の満足のため、身を亡しても自己の精神を貫きたい」と願った彼の心を、終生捉えて放さなかった夢とは何か。その姿を追い求めようとすると、本書の冒頭に引かれた彼の不思議な言葉に戻ります。

 「自分の幼ない時からの記憶を繰り出して見ると、みなどれもこれも楽しかっ た事ばかり呼起されて来るような心持がします。我々の経験のうち、楽しいこ との方が記憶に残り易いように、我々が作られているのではないかと思います」 (西村伊作『楽しき住家』)

 筆者はそれに続けて、「西村伊作という人物の語り口は、感傷に流されず、いつもいたって明朗である。だが、はたしてそれが、わずか七歳で両親を目の前で突然失った人物による回想として、自然なものと言えようか」と書いていますが、彼の心にあった「楽しいこと」の記憶が、その後の思想と行動の源流になったことは確かだと思われます。戦後間もない時期に、彼が三男によくした話というのも、謎めいた響きがあります。

 「郷里奈良県の山奥におじいさんが小さな家にすんでいた話をよくした。その おじいさんは金魚を飼っていた。ある日、人が訪れてみるとそのおじいさんが 眠るように死んでいた。ああいうおじいさんの一生は立派でいいんだね、と話 していた」(西村八知「西村伊作と文化学院」)

 真意を確かめる術はもはやありませんが、一生をかけて「小さくていいもの」を求め続けた人物が、最後まで見つめていた炎の色すがたが、妙に心に残る一冊です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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