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 「一期一会一球」の人
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 今年の選手宣誓は素晴らしかった、という話を知人から聞きました。春の選抜高校野球のことです。震災で大きな被害を受けた宮城代表・東北高校の入場行進を見て胸がジーンときて、その後に、創部2年目で初出場を遂げた創志学園(岡山)の野山慎介主将の選手宣誓を聞いて、思わず涙ぐんだというのです。そして先日、その人がわざわざいくつかの新聞記事を届けてくれました。

 監督から「1000回練習しろ」と言われて、宿舎で特訓したとあります。監督もコーチも阪神・淡路大震災の被災者だったそうで、野山主将は「今回の震災がひとごととはとても思えなかった」と言っています。YouTubeを検索して、遅ればせながら見てみました。「被災者を思い浮かべながら練った」ということばで、堂々と宣誓する16歳の2年生キャプテンがそこにいました。

〈宣誓。私たちは16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともに頑張っておられます。人は、仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに今できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。がんばろう! 日本。生かされている命に感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います〉

 思えば、選手宣誓もずいぶん昔とは変わりました。以前はお定まりの文句を大声でがなり立てるのが、高校球児らしいスタイルと思われていたフシがあります。この軍隊式がまかり通っているのにも辟易しましたが、その反動で、「自分らしいことば」に走り過ぎて、形容詞過剰な自己陶酔型が流行するのも、カンベンしてほしいと思ったものです。それもこれも、中学2年生の時に、「宣誓をやれ」と突然言われて、ほとほと困った経験があるからです。悩んだ末にやるにはやったのですが、苦労した結果がどうだったか。後のことは、まったく思い出せません。

 選手宣誓ががなりたてる調子だった頃は、ベンチの「監督さん」というのもいかめしく、いかにも怖そうな存在でした。笑顔を見せるシーンなど皆無だったように思います。それを大きく変えたのが、尾藤公(ただし)監督でした。23歳の若さで、母校である和歌山県・箕島高校野球部監督に就任した尾藤さんは、3年目で甲子園初出場を果たします。当初は「鬼の尾藤」で押し通していたそうですが、いつしか選手たちを笑顔で見守る“尾藤スマイル”がトレードマークになっていました。

「箕島の練習は本当に厳しかったから、試合になってまで厳しい顔はしたくなかった。胸を張って戦ってこい、という気持ちが知らないうちにスマイルになったと思う」「ちょっと笑顔を出してリラックスさせたほうがいい結果につながる」と後には語っていますが、「あれは偶然の産物だった」とスポーツ記者に教えられたことがあります。守備でミスして帰ってきた選手に、それまでは厳しさを前面に出していた監督が、なぜかそこで笑顔を送ったそうです。すると、ベンチの選手がみな驚き、緊張感が一気にほぐれたというのです。その変化を監督がするどく感じ取ったのが“尾藤スマイル”の始まりです。「ユニホームを着たら白い歯を見せるな」という当時のタブーを、尾藤さんがこともなげに破ってみせた瞬間です。

「選手は個性を持っているのに、監督が型にはめてはいけない」と、細かな指示はせず、選手の自主性に任せる「のびのび野球」を代名詞にしたのも尾藤さんです。試合中や練習中に「水は厳禁」が当たり前だった時代に、地元の内科医のアドバイスを受け、積極的に水分補給を取り入れました。甲子園のベンチ裏にバナナやチョコレートを持ち込んだのも先駆的なら、選手の血液検査や食事の指導、科学的なトレーニングを導入したのも彼でした。根性論中心の精神野球の時代に、さりげなく幕を引いたのも尾藤さんだったと思います。

 こんな話をよく知っているのは、ある箕島高校の野球部OBと時々話す機会があるからです。「恩師の思い出はあり過ぎて……」というその人に、「彼の凄さは?」と尋ねると、「『地方の公立なのに強い』と言われるチームを作ったこと、そして決勝戦ですべて勝っていること」という答えでした。調べると、1966年に監督に就任して以来、95年夏の勇退まで、春夏合わせて14回、甲子園に出場しています。うち春3回、夏1回優勝。甲子園での通算成績は35勝10敗でした。そして「決勝戦ですべて勝っている」という指摘通りに、勝負強かったのが特徴です。準々決勝以降の18試合の成績をみると14勝4敗、勝率.778は驚くべき数字です。どんなに追い込まれても負けそうにないチーム。バントを駆使しながらジワジワと押し寄せてきて、接戦を必ずものにするというのが箕島の勝ちパターンでした。そしてピンチの時であればなおさら、ベンチにどっしりと腰を据え、笑顔を送る尾藤監督の姿が印象的でした。

 鏡とにらめっこしながらスマイルの特訓をしたという尾藤さんですが、気が付くといつの間にか、他校の監督さんもベンチから選手を笑顔で送り出し、笑顔で迎えるのが当たり前になっていました。「選手を信じ切る胆力の持ち主で、気さくな人柄の熱血漢だった」とも聞きました。相手チームの監督に「箕島と戦っているというより、尾藤さんの人間力と戦ったようだ」(横浜高校・渡辺元智監督)と言わせる存在感を放ちました。「高校野球の監督というのは男冥利に尽きるよなぁ」と多くの人を感動させたのは、そうした監督と選手の絆があったからこそです。

 そして言うまでもなく、そのピークをなしたのが、1979年夏の甲子園3回戦、8月16日の第4試合でした。石川県・星稜高校と延長18回を戦い、死闘の末に4-3でサヨナラ勝ちをおさめた試合。球史に残る伝説の名勝負です。先攻の星稜が、延長12回、16回と1点をリードします。その裏、いずれも2死からホームランで追いつくという展開でした。とくに16回裏の2死後、打者が打ち上げたファールフライを追った一塁手が、人工芝と土の段差に足をとられて転倒し、ウィニングボールを捕りそこねます。それで命拾いした打者が、起死回生の同点弾を左中間スタンドに運んだのでした。「甲子園球場に奇跡は生きています」の実況アナウンスが流れ、誰しも鳥肌が立ったというシーンです。

「何度も負けたと思った。あの試合ほど、高校野球の奥深さを実感した試合はなかった」と尾藤監督がいえば、後年、松井秀喜選手を育てることになる星稜の山下智茂監督は、「僕の人生観、野球観を変えた。自分の未熟さを感じた」「僕は厳しい一辺倒だったが、あの試合から変わった」と語っています。山下監督はそれを契機に、本を読み、人の話を聞くようになり、やがて選手を「待つ、信じる、許す」という境地に辿り着いたといいます。「心の野球」「育てる野球」へと、自分の野球哲学を一変させるきっかけが、あの一戦だったというのです。

 この両チームはその後も交流を続け、OBたちが同窓会のように集まって試合をするテレビ番組を見た記憶もあります。昨年9月には31年ぶりに、甲子園でその“再試合”が実現したそうです。教え子たちの笑顔に囲まれた尾藤さんにとって、しかし、これが最後の甲子園となりました。名将が闘病の末に逝ったのは、3月6日。震災の5日前でした。68歳。まだ早すぎるという気がします。

 新聞によれば、近年はがんとの闘いが続いていたそうです。04年4月に前立腺摘出手術。1ヵ月後には膀胱摘出の大手術を受け、07年12月には食道と胃にも転移。09年4月には骨盤にがんが転移。手術が困難な場所で、放射線治療を受けながら自宅療養を続けていたといいます。2月15日に再入院。最後まで「しんどい」の言葉はなく、ご子息に見守られながら静かに息を引き取ったそうです。約7年に及ぶ過酷な闘病生活でしたが、「命の延長戦。あきらめたら終わる」と自らを奮い立たせていたといいます。

 ベンチで笑顔を見せることに批判や抗議が寄せられる時代のあったことを、遠い記憶の彼方へと押しやってくれた人。カリスマ監督の通夜には、甲子園の土が届けられたとありました。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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