【考える本棚】
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 武田尚子
『「海の道」の三〇〇年 近現代日本の縮図 瀬戸内海』(河出書房新社)
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生者と死者のつながり------------------------------------------------------------------------

 小さい頃、親に連れられて訪ねた場所のひとつに鞆の浦(とものうら)があります。広島県福山市鞆町というのが正式な地名で、瀬戸内海に面した小さな港町です。歴史は古く、万葉の昔から潮待ち、風待ちの港として栄え、近世以降は瀬戸内の陸地伝いに船が行きかう「安芸の地乗り」と呼ばれる「海の道」と、その南を行く「伊予の沖乗り」のコースの分岐点に位置していました。朝鮮からの使節(朝鮮通信使)などを迎える幕府公認の「海の駅」でもありました。

 最近の話題では、宮崎駿監督が映画「崖の上のポニョ」の構想を練った場所としても有名ですが、おぼろな私の記憶では、昔ながらの瓦屋根が並ぶ古い町並みの向こうに、穏やかな瀬戸内の海と島々が広がり、遠くに目をやれば四国の山々までが望まれる、静かな落ち着いたたたずまいの町でした。蕪村の「春の海 ひねもすのたり のたりかな」がいかにも似つかわしい、昼下がりの印象です。

 きっとこういう美しい町は、子供心には退屈だったのかもしれません。親と何を話したかもすっかり忘れてしまいましたが、いま振り返れば、その頃日本の高度成長とともに大きく変わり始めていた瀬戸内海沿岸部の風景と、古くからこの地域に積み重ねられてきた人々の営みのおもかげを、ともにそれとなく見せておきたいという意図があったのかと思います。「瀬戸内海人種」を自称していた父親が先導する不思議な日帰り旅は、あちこちの港町を訪ねながら、しばらく続いたものでした。

 そんな記憶にいきなりスイッチを入れたのがこの本でした。何げなく手にして、本当に驚きました。手繰り寄せられるようにあれこれの記憶や風景がよみがえり、そこに宮本常一さんの海の民俗研究の叙述や、昭和を写し取った懐かしい写真の数々が折り重なり、瀬戸内に生きた人々の情感に触れゆく旅に誘い出されました。

 本書の主舞台は田島(たしま)という、ほとんど誰も知らない小島です。先ほどの鞆の浦から直線距離にして3キロほどの南西海上に浮かび、いまは阿伏兎瀬戸(あぶとのせと)という海峡を内海大橋がまたいで陸続きになっています。一見何の変哲もない、およそ人が訪ねそうもない場所がテーマです。そこへ筆者は足かけ14年通い、計186名の聴き取り調査を行い、島にひそむ歴史と生活文化の豊かな諸相を浮かび上がらせました。研究書の趣きを残していますが、島の「根の世界」をたどろうとする文章からは、歴史を超えた記憶の集合的な泉から、この島の貴重な物語をすくい取ろうとする情熱が感じられます。

 さて、いまでは「クジラと日本人」は国際的な“非難の的”のようになってしまいましたが、古式沿岸捕鯨が盛んだった頃は、「紀州捕鯨」の太地(映画「ザ・コーヴ」ですっかり“悪名”を轟かせましたが)だけでなく、「土佐捕鯨」の室戸、「西海捕鯨」の呼子(よぶこ)、生月(いきつき)、「長州・北浦捕鯨」の青海島(おうみしま)などが有名でした。本書の舞台である田島は、沖合での大網漁法で名を馳せていましたが、やがてその優れた麻網を製造する技術を買われて、遠く西海捕鯨に熟練者を送り込むようになります。つまり捕鯨の際に用いる網の製作や補修のスペシャリストとして、田島漁民は毎年、約9ヶ月におよぶ季節労働者になることを求められたのです。 この出稼ぎが江戸中期から明治30年代まで続き、鯨を媒介とした海の道は、人もモノ(鯨油取引など)も活発に往来するメインルートとなりました。やがて網取法が近代捕鯨に切り換わるとともに西海捕鯨は終わりを告げ、海の道は新たな方向へと転じます。沖合志向が顕著で、明治初期からは「打瀬船」による打瀬網漁法に習熟していた田島漁民は、瀬戸内の漁場が手狭になるにしたがって、海の道をマニラ湾へと延伸するのです。やがてフィリピン漁業移民の中からはヒーローも生まれ、島には大きな財がもたらされます。ピーク時には田島、隣の百島(ももしま)からの移住者は約200家族いたと言われますが、日本の敗戦によってこれも終焉を迎えます。

 すると、田島は再び捕鯨との縁を復活させ、故郷に引き揚げた人々のうちから、戦後の南氷洋捕鯨に参加する者が現われます。50名近くが雇用された年もあり、鯨を追いかける海の道は、ついに赤道を越えて、南半球へと伸びていきました。「田島の田なし」と言われるほど水田の少ない土地だったがゆえに、漁業に限ってもこうしたダイナミックな歴史がここから展開されました。

 一方、田島漁民がマニラへ行くようになった頃、瀬戸内航路には重大な変化が起きていました。近世に多様な商品流通の大動脈となった瀬戸内航路は、明治に入ると北九州から阪神地方へ石炭を運搬する「エネルギー海道」になります。機帆船が増加し、新たな海運業・造船業の雄として「常石造船」のような産業資本が頭角を現します。やがて時代が下り、日本が戦後復興を遂げるにつれて、国のエネルギー政策は石炭から石油へと転換され、瀬戸内海沿岸部には石油コンビナートや産業拠点が次々と建設されます。「瀬戸内の改造」が本格化し、1970年代の石油ショック以降には「エネルギーの備蓄地域」としての機能がさらに付け加えられます。

 こうして「海の道」300年の歴史をたどりながら、田島を中心とする島の人々の暮らし、産業、社会構造、生活文化などの変遷を概観した本書は、最後に1980年代にこの地域を揺るがすことになったLPG基地建設反対運動を詳述します。地元出身である宮澤喜一という有力政治家を押したてながら、地元産業資本が中心となって推進する産業政策と、それに抗して繰り広げられた住民の反対運動の顛末です。

 結果的にはLPG基地建設は中止となりますが、そこでくっきりと見えてきた「産業の時間」と「むらの時間」の重層的なドラマを、筆者は次のように考察しています。

〈瀬戸内の小さな島の三〇〇年を通して、見えてきたものは、海と島の世界に暮らす人々の「根の世界」の深さである。三〇〇年の間に、人々の職業は変わり、海の利用の仕方も変わり、「海の道」を走る船舶も積荷も変わった。人々の暮らしは激変した。しかし、一九八〇年代のLPG基地反対運動に精魂を傾けた人々の話を聴き取ってゆくと、人々の支えになり、守り抜くべきものとして具体的に意識されたものは、むらの神木であり、むらの「うた」を介して実感している生者と死者との「つながり」であり、「聖と俗」の時間・空間を共有している仲間だった。 変化の激しい時代に、人々がよりどころにしてきたものは、不安を分かち合える「つながり」だった。生者同士のつながりだけでなく、「聖と俗」を象徴する樹木やうたを受け継ぎ、生者と死者のつながりを意識することは、人々に安心感を抱かせる〉

 LPG基地建設反対運動をリードした人物のひとりが、自分の役割にしだいに目覚めていく中で、心の支えとしたのは、彼が「盆の音頭取り」というむらの「うた」の伝承に深く関わっていたことでした。このくだりこそ、本書の圧巻です。

〈死者を悼む場で、人々の気持ちに寄り添い、口説きを朗唱する音頭取りは、集落には欠かせない存在である。耳と身体で、口説きの節を覚え、人々の気持ちを一つにまとめあげる力量が必要とされる。 盆の踊りとうたは、むらに生きた人々の姿を心に蘇らせ、死者とのつながり、記憶を共有する場である。音頭取りは深い情緒に満ちた雰囲気を醸し出しながら、集合的記憶の形成に手を貸す。もののあわれ、人間的存在の根源的な意味と深く結びついた文化の形成・維持に関わっているのが音頭取りなのである〉

「口説きの節にのせて、太鼓を打ちながら、新盆の死者一人一人について、生前の出来事、思い出を朗唱する。一〇人の新盆があれば、四時間はかかる」というこの情景は、ただ想像するしかありません。そうした集落の「根」に関わる文化を伝承してきた人物が、この島の将来のために「捨身で尽くす運動者」になったという事実――。

 できれば、この「うた」の伝承を、田島の「遠野物語」のように読んでみたいという思いを抱かされます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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