【考える本棚】
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 野嶋剛『ふたつの故宮博物院』(新潮社)
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文物有霊------------------------------------------------------------------------

「箱詰め」には、職人たちの「秘技」が隠されていました。不慣れな人間が包んだ茶碗を蹴って転がすと、茶碗が割れてしまいます。ところが、骨董商のもとで働く職人たちが包んだ茶碗は、同じように蹴って転がしても割れません。「穏」(慎重に)、「準」(正確に)、「緊」(しっかりと)、「隔離」(お互いを離す)という4つの言葉で表される、かなり奥の深い梱包の技術です。故宮の職員たちはこの「秘技」を学びながら、実に1万9557箱にも達する引越しの荷物を用意しました。

 本書は戦争と政治に翻弄されて、数奇な運命をたどった「故宮博物院」の文物の物語です。なぜ中国と台湾にふたつの「故宮博物院」が生まれ、「引き裂かれた一枚の地図」のような状態になってしまったのか。大きな流れについてはよく知られていますが、本書の面白さは、この前代未聞の文物流転の歴史を分かりやすく解き明かす一方で、近年の動きを含めて、いまなお変化の渦中にある故宮問題のありようを描き出している点です。

「国家は滅んで再興できるが、文物は一度失われたら永遠に元には戻らない」――故宮の幹部が収蔵物の疎開準備を指示したのは、日中関係に暗雲が立ち込めてきた1931年初頭のことでした。その年には、「9・18事変」と中国で呼ばれる柳条湖事件が起き、ほどなく満州事変が勃発します。翌年には満州国が建国され、翌々年には日本が国際連盟を脱退。華北情勢が緊迫の度を増すなかで、「中華民族の生命とも言える文物をごっそり南方に運ぶという移送計画」が国民政府によって敢行されます。故宮博物院に加え、古物陳列所や頤和園などの宮廷文物が加わり、それらの総計が上記の1万9557箱に及んだわけです。

 1933年、北京を脱出した荷は、上海を経て南京に向かいます。途中の上海で優れた文物を選り抜き、ロンドンでの中国芸術国際展覧会に出展したために、全箱が南京の故宮博物院分院に落ち着くまでに3年を要することになりました。ところが、翌年7月に盧溝橋事件、8月に第2次上海事変があいついで起こり、日中対決の流れは決定的になります。再度の移転がさっそく検討され、3つのルートに分かれて「西遷(西方への移送)」が開始されました。日本軍による南京陥落とは、間一髪のタイミングだったといいます。 さらに、疎開する文物を追うように重慶への爆撃を開始した日本軍を振り切り、西へ西へと向かいます。過酷な道のりが続き、運搬作業は困難きわまりないものとなりました。陸路も水路も危ない事態の連続でした。それにもかかわらず、「文物の破損、紛失は皆無に近」く、人命が失われることもなかったそうです。「文物有霊(ウェンウーユーリン)」――「現在も故宮に語り継がれるこの言葉は、故宮職員らが国宝を守りながら危機をくぐり抜けるたびに、自然に口にするようになったもの」だといいます。こうして7年間にわたり、文物とともに疎開地で暮す日々が続きます。やがて1945年、日本が降伏。文物が重慶を経て、南京の故宮博物院分院に戻されたのは1947年でした。「14年間、総行程1万キロに及ぶ」長い旅でした。

 さて、ここで何事もなければ、やがて収蔵品は「故郷にあたる首都北京の紫禁城に戻されるはず」でした。ところが、時代はそれを許してくれません。1946年、国共内戦が始まり、国民党が次第に劣勢に追い込まれていくなかで、またしても文物を南京から移送させる議論が沸き起こります。そして国民党の撤退先として浮上した台湾に向けて、1948年から49年にかけて、総計5518箱(うち故宮の文物は2972箱)が海を渡るのです。

 こうして台湾に渡ったものと、南京に残され、やがて北京に戻されていく文物とが別々の運命を歩み始めました。「ふたつの故宮博物院」の始まりです。

 それにしても驚くのは、このべらぼうな規模の輸送作戦が行われたということ自体です。日本でいえば「三種の神器」なのでしょうが、当時の中華民国の最高権力にとって、故宮の文物を手放さないことの重要性を考えさせられます。蒋介石が故宮文物についてどのような思いを抱いていたのか、という確証はないようですが、「内戦の敗北が必至となっていた危急の時に、あえて貴重な軍船を動員してまで」これだけの移送作戦を断行したということは、文化的価値はさておき、その政治的な利用価値は当然知り抜いていた、と言わざるを得ません。中華文明の粋を集めた文物を所持していることが、権力の正統性を担保するというのは、きわめて中華民族的な発想だからです。

 同様に興味深いのが、台北故宮は「その設計やデザイン、名称などに孫文という中国革命の象徴的人物を投影している」という学説です。たとえば、台北故宮は南京にある孫文の陵墓、中山陵(孫文の本名は「孫中山」)と「外観上、酷似している」といいます。またその建物の正式名称は「中山博物院」で、さらに正面玄関にある巨大な門には「天下為公」という孫文の金言があり、ロビーには彼の銅像が据えられています。そもそも台北故宮の開院式は孫文の誕生日で、彼の生誕100周年を記念する1965年11月12日に行われたのです。言い換えれば、「辛亥革命」によって近代中国の扉を開けた孫文こそが中華の正統な継承者であり、その「国父」の精神、伝統を引き継ぐのはわれわれ中華民国である、という蒋介石の意図がここにも明確に示されています。

 このように故宮という具体的な窓から眺めると、1930年代から現代に至るまでの近現代史の流れが非常にリアルに迫ってきます。筆者は1968年生まれですが、2007年に朝日新聞の台北特派員になったことを機に、かねてあたためていた本書の構想を具体化していったそうです。3年間の在任中、精力的に台湾の最新事情を伝えていた筆者は、本書でもフットワークよく各地を訪れ、興味深い事実や関係者の証言を集めています。

 また台湾における2度の政権交代(2000年の民進党の政権奪取、2008年の国民党復活)がもたらした故宮をめぐる政治的な駆け引きや、「故宮改革」という一大プロジェクトの推移、あるいは大陸における近年の海外流出文物の回収運動、さらには台湾・国民党の政権復帰後に始まったふたつの故宮の親密な交流ぶりや、故宮日本展をめぐる水面下の動きなどを幅広く取り上げています。軽快な語りにのせられて読み進めるうちに、この先、ふたつの故宮はどこへ向かうのだろう、と思考が導かれます。

 ちなみに、本書にもわずかに登場していますが、辛亥革命前後に中国の骨董市場に放出された大量の掘り出し品を買い付け、それを欧米で売り出した美術商の「山中商会」については、朽木ゆり子さんの『ハウス・オブ・ヤマナカ』(新潮社)という貴重なノンフィクションが書かれました。20世紀初頭から第2次世界大戦まで、欧米各所に構えた支店で、日本や中国の書画骨董を積極的に販売し、その価値を世界的に知らしめた「山中商会」は、いまでは歴史から消えた存在です。しかし、ある時期、欧米に名を轟かせたこの会社の運命を通してみる近現代史のドラマも、実にスリリングな事実と彩りに満ちています。

 文物のたどる道すじは、時として歴史の雄弁な証言者です。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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