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 天ハ自ラ助クルモノヲ助ク
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「緑陰読書」という言葉を最初に目にした時、たちどころに魅せられた思い出があります。暑い夏の昼下がり、大きな樹の下で涼しい風に吹かれながら、ノンビリと本を読む。眠くなったらうたた寝をする。そんなイメージに憧れて、子供の頃から何度も試みてはみましたが、結局それらしきことが満足にできたためしはありません。それでも夏の読書というと、反射的にこの言葉が思い浮びます。どこかひんやりとした木陰で、普段は読めないような本のページを繰りながら、少し遠くを見るような時間を持ちたい、と。

 さて先週、ふと目にとまった新聞記事があります。菅首相の動静を伝えた短いもので、「退陣後に読む? 夏休みに書店へ」とありました。半袖シャツにチノパン姿の首相が、書店で本を選んでいる写真を掲載した新聞もありました。

〈菅首相は16日、東京・八重洲の書店で本を5冊購入したほかは、終日公邸で過ごし、短い「夏休み」を送った。書店に出かけるため、公邸を出発する際は、「読書の秋が近いから」と記者団に笑顔で語った。退陣後をにらんで本を買い込んだとみられている〉(読売新聞8月17日朝刊)

 購入した5冊の本というのは、(1)水野倫之・山崎淑行・藤原淳登『緊急解説! 福島第一原発事故と放射線』(NHK出版新書)、(2)佐藤優『予兆とインテリジェンス』(産経新聞出版)、(3)佐藤栄作久『知事抹殺 つくられた福島県汚職事件』(平凡社)、(4)ラモン・ビラロ『侍とキリスト ザビエル日本航海記』(平凡社)、(5)吉村昭『冷い夏、熱い夏』(新潮文庫)です。

 首相が誰とどこで会食したかという「動静」も、麻生太郎総理時代から俄然注目されるようになりましたが、どんな本を購入するのかも、当然気になるところです。菅首相が書店に立ち寄るのは今年1月10日以来のことで、その時も同じ八重洲ブックセンターでした。ちなみにこの時求めた計7冊の内訳は、(1)ジャック・アタリ『国家債務危機 ソブリン・クライシスに、いかに対処すべきか?』(作品社)、(2)藻谷浩介『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く』(角川ワンテーマ21)、(3)宮本雄二『これから、中国とどう付き合うか』(日本経済新聞出版社)、(4)筑紫哲也『自我作古 国家を考える。』(日本経済新聞出版社)、(5)立花隆・NHKスペシャル取材班『がん 生と死の謎に挑む』(文藝春秋)、(6)橘木俊詔『無縁社会の正体 血縁・地縁・社縁はいかに崩壊したか』(PHP研究所)、(7)『文藝春秋』2月号、というラインナップでした。

 新年の仕事始めの場合と、「夏休み」の選書では、おのずと内容が異なってきそうですが、あまりそんな風でもありません。「緑陰読書」というよりは仕事モード。むしろ夏休み返上で当面の課題に取り組むぞ、という意思表示に力点がありそうです。ただ、6月初めに緊急出版された原発問題の入門書を、「なぜ、いま」という違和感のほうが先立ちますし、個人的には、こういう実務的な本はスタッフを買いに走らせればいいことで、「読書の秋が近いから」というなら、もう少し違った選択があったのではないかと思います。首相の言動はことごとくがメッセージですから、より個性的な、違う次元の発想がほしかったところです。「退陣後」をにらむなら、なおのことです。

 もっとも、直近では昨年1月11日に、丸善丸の内本店で単行本28冊をまとめて買った鳩山由紀夫前総理の例があります。まるで大学に入りたての学生が、指導教官から言われた課題図書を大学生協で一括購入したような印象で、“勉強熱心”というよりも、人を不安に陥れる衝撃がありました(参考までに、この文末にラインナップを掲げておきます。もし私が政治コラムニストなら、これらの読後感をご本人からじっくり取材して、一篇の人物コラムを書きたいものですが……)。

 最近の総理大臣と本との関わりでいえば、時々思い出すのは小泉純一郎氏です。総理在任中に都合4回、対談やインタビューで話を聞く機会がありました。城山三郎さんの『男子の本懐』や『落日燃ゆ』、吉村昭さんの『戦艦武蔵』、『ポーツマスの旗』、『白い航跡』、『長英逃亡』、司馬遼太郎さんの『国盗り物語』などポピュラーな歴史小説を、独特の鋭い政治感覚で咀嚼していました。言葉の力で世論を動かす人物の読書術とはこういうものか、と唸らせられるような勘所の押え方でした。

 一方、若い時分、すっかり太宰治に傾注していたという小渕恵三さんは、「どうせ好きになるんだったら徹底して好きになってやろうと思って、ありったけの初版本を集めて読みました」と言いつつ、

〈じつは僕が、太宰治を語るようなことは最近になってなんです。いままでは、こういう政治という仕事をしていると……ともかく軟弱文学にふらついていたと思われたくなかったんです。強靭な精神をもって毎日を生きていかないとノイローゼになってしまうような仕事をやっていますからね〉(『中央公論』2000年3月号、福田みどり氏との対談「司馬さんに教わったこと」)

 と正直に洩らしています。総理になったので、もう「怖いものはないから、全部さらけ出してやろうと思っている」とも。また、別の折には、丑年生れの自分は高村光太郎の「牛」という詩が好きだと語っていました。「牛はのろのろと歩く/牛は野でも山でも道でも川でも/自分の行きたいところへは/まつすぐに行く」に始まる長い詩ですが、「牛は随分強情だ/けれどもむやみとは争はない/争はなければならない時しか争はない/ふだんはすべてをただ聞いてゐる/そして自分の仕事をしてゐる/生命をくだいて力を出す」というくだりなど、小渕さんの政治スタイルを垣間見る思いがしました。

 現下のような国内外の状況では、悠々と緑陰に読書することなど期待するほうが無理かもしれません。ただ、こういう時だからこそ、どういう本を手にするのかを見て、その人の心境、気概を推し量りたくもなります。一国のリーダーが衆人環視のもとで購入する本の意味は、決して軽いものではないはずです。

 その意味で、対照的なインタビュー記事を読みました。自分は「子供が憧れる真のスターでいたい」から、「カッコよく振る舞うことを人格にしないと」というサッカー日本代表の本田圭佑選手です。「最近読んだ本で印象に残ったものは?」という問いには、サミュエル・スマイルズの『自助論』と答えています。スマイルズは1800年代に活躍した英国の作家で、1871(明治4)年、中村正直の手によって翻訳され、明治最大のベストセラーとなった『西国立志編』の原本『セルフ・ヘルプ(自助論)』の著者として知られています。中村訳の巻頭に掲げられた一文「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク」の倫理が、江戸時代以来の儒教文化に接木され、それが近代日本人の精神的なバックボーンになったと言われるその本を、若きサッカー界の雄が手にしたということに興味を覚えます。

〈「題名どおり、自分を助けるっていうことを唱えている本。ようは自分を助けることができるのは自分だけだと。すっごくいいよ」 ちょっと冗談っぽく本田は言った。「もし原稿の最後に2行くらい余ったら、マコ(長谷部誠)やユウト(長友佑都)の本もいいけど、『自助論』もいいよって書いておいてよ」〉(『Number』783号)

 なでしこジャパンの沢穂希選手の「苦しくなったら私の背中を見て」という言葉も話題になっています。どうやら、人に見られる存在であるという“リーダー”の自覚は、スポーツ選手のほうが政治家よりも強くなっているような気がします。さらに言えば、彼らのほうが自らの目標を設定し、そこに至るまでの行程を描き、自分を厳しく鍛え上げていく能力や、自分を客観視するために周囲の意見に耳を傾ける謙虚さにおいても、一日の長があるような気がしてなりません。

 夏の終わりと政治の季節の変わり目を日々感じながらも、爽やかな秋の気配はまだ近づいてこないようです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)