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 実、それとも虚?
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「どじょう」の力に、今度ばかりはまいりました。いまの世相に響く言葉だなあ、と聞いて感じるものがありましたが、さっそく「どじょう宰相」のフレーズが一人歩きを始めています。「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」という相田みつをさんの作品を、参院民主党のドンである輿石東氏に教えられたのが発想のヒントになったといいます。きっかけはどうあれ、大事なのはそこでひらめいた野田佳彦さんのセンスでしょう。「ドジョウにはドジョウの持ち味がある。金魚のまねをしてもできない。泥臭く、国民のために汗をかいて働いて、政治を前進させる。ドジョウの政治をとことんやり抜きたい」。先月29日の代表選の演説を聞いて、野田氏への投票を決めた議員も少なくないそうです。むべなるかな、と思います。

 もっとも、こういうやや自虐的な語り口――印象は地味だけれど、低姿勢に徹し、誠実さを前面に押し出す手法は誰かに似ているな、と思っていたら、さっそく外国メディアが指摘してくれました。「もう一切れの冷めたピザ」(米タイム誌電子版、8月29日)。

 そうか。首相就任からほどなくして「冷めたピザほどの魅力しかない」と米メディアに酷評された(おまけにピザを持った本人の写真が米タイム誌の表紙を飾った)小渕恵三元首相です。派手さとは全く無縁で、「凡人宰相」だの「真空総理」だの言われながらも、自ら「ボキャ貧(ボキャブラリーが乏しい)」と称して見栄を張らず、衒いを捨て、気遣いと実直さの「ブッチホン(ご本人からのダイレクト・コール)」で次第に好感度を高めていきました。「期待薄」からスタートしただけに、後はプラスを積むだけでした。

「私は群馬県では角のラーメン屋のおやじです。中曽根(康弘)さんと福田(赳夫)さんはでっかい、いわば三越、西武みたいなもんです」――ある国際会議のレセプションの席で、小渕さんが自嘲気味にこうスピーチしたので、同時通訳の第一人者、小松達也さんは「困った」と証言しています。いくらなんでもそのまま訳しては、日本国の首相が外国政府から見くびられないとも限りません。小渕流はあまりにも「日本的な謙遜」が過ぎていると思えました。小松さんはその場の空気を察しながら、聞いている人が怪訝に思わないように、表現を和らげた(soften)というのです(鳥飼玖美子『通訳者と戦後日米外交』)。では、金魚ならぬ「どじょう」はどうなのか?

「野田首相は型破りな指導者にはならないだろう。本人自ら、恰幅の良いルックスを水底で暮らすドジョウにたとえて、自身の平凡さを認めている。元首相の一人として片付けられる前に、少なくとも野田氏は良い意味で自嘲的なウィットを持っていると言える」(英エコノミスト誌9月3日号、JBpressより)。数日間で、「もう一切れの冷めたピザ」からだいぶ点数が上がってきたようです。これも「どじょう」効果でしょう。

 そもそも「どじょう」は愛らしいイメージの持ち主です。お池にはまったどんぐりに、「どじょうが出て来て 今日は 坊ちゃん一緒に 遊びましょう」というのから、安来節の「どじょうすくい」まで。そして、江戸庶民の味としても親しまれてきました。私も会社の先輩に、夏の暑い日に泥鰌専門の店へ案内され、熱々の泥鰌鍋をつついたところで「なるほど」と思ったものです。

〈はじめは、どぜうなど、うまいともおもわなかったけれども、底の浅い鉄鍋を前にして、薬味の葱を泥鰌の上へ盛り、煮えあがるかあがらないかというときに、引きあげて食べる。そういうことをしていると、何か一人前の大人になったようで、いい気分だったのである〉(池波正太郎『散歩のとき何か食べたくなって』)

 連れて行かれたのは、池波さんが大のご贔屓だった深川の「伊せ喜」でした。ここに来たら泥鰌の蒲焼をまず食べなくちゃとか、シメは泥鰌汁のぶっかけめしに限るとか、たっぷりウンチクを拝聴したのですが、いまでもふと無性に食べたくなるのは、結局、泥鰌の丸鍋です。深川や浅草の「駒形どぜう」にわざわざ出かけるというのも楽しみです。行こうと決めた瞬間から、泥鰌の骨の食感と、ささがきゴボウの歯ごたえや、たっぷりかけたネギの香りに、思わず顔がゆるみます。あの丸ごと泥鰌の下ごしらえには、きっと秘伝があるのでしょう。

 江戸時代は庶民のファーストフードだったと聞きます。熱々の鍋をササッと食べて、長っ尻しないのが流儀だったのでしょう。ただ、いまはどちらかと言うと、左党がゆるゆると盃を傾けて、という感じなので、江戸本来に近い体験をするのは、某広告代理店の新年祝賀会の時くらいです。この日ばかりは「駒形どぜう」が帝国ホテルまで出店して、入れ替わり立ち代りの客に泥鰌鍋をふるまいます。

 いまや“高級魚”並みの値段だと言われますが、高タンパク低脂肪で、カルシウムも豊富なヘルシー食。土用の鰻と並んで、夏場の疲れを吹き飛ばしてくれる、リフレッシュ・メニューであることには変わりありません。そのうち新宰相に泥鰌鍋をつつかせよう、なんてPR作戦が出てくるに違いありませんが、そんなパフォーマンスには食傷気味なので、どうか「泥臭く」「汗をかいて働いて」という原点を忘れないで、仕事に精を出してほしいと願います。「どじょう宰相」の賞味期限はそれ次第だと思うからです。

 ところで、野田首相の発言は「ドジョウはドジョウの持ち味がある。金魚のまねをしてもできない」でしたが、金魚もまた、いまひそかなブームを呼んでいます。ひとつには、“金魚絵師”として知られる美術作家の深堀隆介さんが、10年にわたる活動をまとめた『金魚養画場』という作品集(文芸社)を出版しました。「もう美術なんてやめよう」とスランプのどん底にあった時、ベッド脇の水槽に、7年前の夏祭りですくってきたメスの金魚が1匹いることに気がつきました。改めて上から見た瞬間に、背筋がゾクゾクっとしたそうです。夢中になって彼女を描きました。そこから道が開けました――それを本人は「金魚救い」と呼んでいます。

 面白いのは金魚という存在です。元来は、「フナの仲間が突然変異したもので、一説に1500年前の中国の池で、金色に輝くフナが発見されたのが金魚の始まり」だと言われているそうです。それが人間の手によって、どんどん品種改良されて、いまや驚くほど多品種の金魚が誕生しました。それにもかかわらず、「完全に種として定着している品種は、ほとんどいない」とか。そのため、もし人間が管理の手を止めるなら、「金魚たちは自由交配し数代ほどでフナに戻ってしまう」というのです。そう聞くと、あのヒラヒラ泳ぐ「金色のフナたち」は、一体何者だろうか、と思えてきます。フナの化身である金魚は、究極の虚像なのか、と。

 もうひとつは、日本橋三井ホールで開かれている「アートアクアリウム展~江戸・金魚の涼~」です。こちらでは高級金魚から珍種まで、多種多様な金魚のコレクションが堪能できます。江戸の遊郭をイメージさせる巨大金魚鉢「花魁」や、万華鏡、行燈水槽、背面に投影された水墨画映像にその前を泳ぐ金魚が映りこんだ屏風水槽など、色鮮やかな水槽アート作品が展示されています。これらの独創的な水槽デザインと、高度な水質管理、生体管理を組み合わせた「アートアクアリアム」という独自の分野を切り開いている木村英智さんというプロデューサーの演出です。夜は音楽やライティングがガラリと変わり、ドリンク片手に金魚の中を回遊するという不思議なラウンジ空間に変貌です。これも美しく、妖しく、どこまでも謎めいた世界です。

 泥にまみれて汗をかく実質本位の泥鰌派か、それとも彩り鮮やかな幻影をふりまく金魚派か。実の力か虚の力か。思いがけない対比の妙を、夏の終わりに感じています。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)