【考える本棚】
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 星野博美『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)
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記憶を生きる力にして------------------------------------------------------------------------

「もう一刻の猶予もゆるされない。ぐずぐずしていたら後悔することになるだろう」という衝迫が、15年間、そっと封印してきた「祖父の手記」をひもとく決意を促します。そこから、この物語は始まります。親元を離れて一人暮らしをしていた筆者は、2007年、19年ぶりに実家に戻ります。その年に、親戚の長老がひとりこの世を去り、自分の家族や先祖がどのような道のりを歩んできたかを知るには、「そろそろ祖父の書き残したものと向き合う時なのかもしれない」とその葬儀の席で思うのです。

 全長約1.6km、「日本一直線距離が長い」という商店街に約400の店舗が軒を連ねる東京・品川の戸越銀座が、筆者のホームタウンです。バルブを加工する「ネジキリ」の町工場を営む一家の、3人姉妹の末っ子として生まれました。祖父は外房の漁師の六男、祖母はやはり外房の農家の次女。その祖父が東京へ出て町工場を興し、それを筆者の父が引き継ぎました。「在京漁師三世、漁師系東京人三世」と筆者が称するゆえんです。外房は御宿に隣接した岩和田という港町の出身です。一家は「コンニャク屋」という変わった屋号で呼ばれていました。なぜ、漁師の屋号が「コンニャク屋」なのか。その詮索を含めて、筆者は自分のルーツをたずね、時をさかのぼる旅を始めます。

 わが家には「相反する文化が入り乱れている」と幼い頃からうすうす感じていたといいます。「外向と内向。大胆と臆病。楽観と悲観。おおらかさとせせこましさ。享楽と勤勉。ホラ吹きと謙遜。率直と遠慮。反抗と従順。浪費と貯蓄。傲慢と謙虚。放浪と定住。挑戦性と保守性。開放と閉鎖。豪放と質素……」――それは「まるで自分の二面性」ではないか、ということに筆者の妄想はふくらみます。

 この家では、祖父の存在感はとてつもなく大きいものでした。「格好よし、きっぷよし、面倒見よしだから、若い頃はさぞもてたことだろう」という祖父は、外房・岩和田の人たちからは「戸越」と呼ばれ、コンニャク屋を束ねる扇の要に位置していました。

〈祖父について覚えているのは、とにかくいろんな遊びを教えてくれたことだ。花札に野球拳、芸者相手の唄遊び、ビールの空き瓶を利用した尺八の吹き方指南など、まあいま思えば子供相手に教えるにはあまり適切とはいえない、酒にまつわる遊びばかりだったが、子供にはそのいかがわしさがたまらなく楽しい。また、言うこともどことなくおかしかった〉

 この祖父を中心とした星野家が一番活気に溢れていたのは、家族が7人、工場で働く住み込みの工員やお手伝いが6人、計13人が起居をともにしていた頃でした。そこに入れ替わり立ち代り親戚や仕事や趣味の仲間など、祖父の客が大勢やってきては、連日連夜、宴会が開かれました。いまの常識からはかけ離れた賑やかな一家です。ところが、筆者が8歳のときに、その祖父が他界します。「畳の上で死ぬ」ことを願い、自宅で療養していた祖父のもとには、岩和田の親戚が続々と訪れました。そして最期の別れの日には、白い布で包まれた祖父の棺を甥っ子たちが担ぎ、玄関を出ると、そこには左右にずらりと黒装束の男たちが並んで、祖父の終生愛してやまなかった尺八を吹いて見送ったといいます。

〈それは映画でも見ているような光景で、現在の私にいわせれば、族長の死と呼んでもかまわないほどの荘厳さだった。そのワンシーンに、祖父の人生のすべてが凝縮されているようだった。 あの棺は舟だ、とその時私は思った〉(「族長の死」、『のりたまと煙突』所収)

 死期を悟った祖父が、自分には時間がないことを自覚しながら、机に向かって書き続けた手記が残されました。自分の生きた証を残しておきたいという思いのつまった回想録です。なぜ、それを書いておきたいと思ったのか。誰に向けて書こうとしたのか。筆者はそれを自問自答しながら、自分が出会う以前の祖父に会いたいと切に願います。その託された手記と、家族の中の記憶、そして懐かしい岩和田の親戚たちとの語らいを手がかりに、一族の来歴をめぐる旅が進行していきます。読者はロードムービーを観るように、この道行きにいつの間にか引き込まれてしまいます。

 千葉県には勝浦、白浜など和歌山県と共通する地名が多くあります。そんなことから、黒潮に結ばれたつながりがあるのかと漠然と感じている人も多いことでしょう。はたして、星野家のルーツがどうやら紀州にあるらしい、ということはすぐに知れます。ところが、資料を丹念に調べていくと、先祖は那智勝浦など、外洋に開けた紀伊半島の東側からではなく、紀伊半島西岸――むしろ大阪湾に近く、淡路島や四国に面したところから組織的に渡って来ていたことが判明します。

 17世紀の初め、岩和田に漂着したメキシコ人ドン・ロドリゴによって、「同村は此島の最も劣りたる村落にして、全國中最も寂しく且貧きものならんと思はる。何となれば住民三百に過ぎざる」と書かれたほどの集落。「食卓に魚がのぼることさえままならない」寒村に、ある時を境にさながら「ゴールドラッシュ」のように関西漁民が進出してきます。彼らが求めていたのは大量の鰯(いわし)でした。食用ではなく、肥料(魚肥)の材料としてでした。

 当時、畿内、およびその周辺の農村では、商品作物である棉作農業が普及し始めていました。ところが、「米や他の作物とは比較にならないほど収益が多い反面、よい収穫をあげるためには稲作のほぼ倍にあたる多数の労働力と多量の良質肥料を投下し、集約的な経営を行う必要があった」のが棉作でした。その結果、急速な魚肥需要が生まれ、それに応じて鰯漁がめざましい発展を遂げます。とはいえ、先進的な漁法を備えながらも、目の前の漁場は狭く、増大する需要の確保には明らかに限界が見て取れました。そこで、鰯を求めて漁民たちは房総半島へと向かいました。加えて、ほぼ時を同じくして、1603年、徳川家康によって江戸幕府が開かれます。日本の政治の中心が東国に移されるとともに、食料の一大消費地として、江戸という都市が視界に入ってきます。房総そのものの地理的・経済的意味が、ここで大きな転換点を迎えるのです。

 このように、ルーツ探しによってもたらされた発見は、日本近世史にとっても重要な「海の道」に連なっていました。そのダイナミックな歴史の流れとともに、コンニャク屋の先祖は外房の地に辿りついたのでした。そして、時代は下り、今度は日本近代史の潮流に乗って、外房を後に品川を新天地として、町工場の経営を手がけていく祖父以降の歴史が始まります。漁師が陸に上がってからの物語です。

 実は、この箇所は個人的にも身を入れて読みました。というのも、いま私が住んでいるのは大崎というところです。筆者の祖父が最初に移り住んだ五反田は隣の駅であり、その猥雑で不思議な空間は日頃から興味が尽きないところです。星野家の第二ステージが始まった頃の五反田周辺は、小林多喜二の『党生活者』、宮本百合子の『乳房』の舞台になるなど、プロレタリア文学作品にふさわしい一帯でした。一方で、美智子皇后の生家である正田家のあった池田山などの高級住宅地がすぐ脇に控える場所でもありました。「昔から、山は金持ち、谷は貧民と相場が決まって」いたという五反田は、まさに社会構造が目に見える町でした。そこを、祖父は第二の故郷と定めました。なぜか? そこに岩和田の人たちがいたからでした。

 筆者は「五反田駅のホームには、東京中の駅で最も気持ちのいい風が吹いている」といいます。山手線の高架下を、線路に垂直に走る桜田通りの上を、風が一気に通り抜ける、というわけです。この地を“生まれながらの故郷”として抱きしめている筆者は、祖父の時空を訪ねて歩きます。地霊が立ち上ってくるような、現実と妄想の入り混じったこの探訪も、この筆者ならではの読ませどころです。

 と思えば、猫を飼う話。家庭内の“文化摩擦”が語られます。大の「猫好き」である筆者は、いま実家に戻って両親とともに猫を飼って暮らしています。ある日、そんな様子を見た母親から、「あんたは何ひとつおばあちゃんに似てないけど、唯一そっくりなのは、動物を溺愛するところだね」となにげなく言われた言葉に、衝撃を受けます。ずっと動物嫌いの家だとばかり思いこんでいたけれども、祖母は違った? 尋ねてみると、農家出身の祖母は動物が好きで、かつては犬も猫も飼っていたのだといいます。ところが、町工場に住み込む工員たちはそろって外房出身者ばかりなので、食事はいきおいアジの開きのような魚料理が主体となります。すると、猫はその目の前のご馳走を時々かっさらってしまいます。それに怒り、困り果てた母親は、ついに猫を禁じたのだというのです。そこから筆者は推論します。「農民にとって、米を狙うネズミを捕ってくれる猫は大切な存在かもしれない。しかし漁師にとって、主食であり換金食物である魚を狙う猫こそ天敵なのだ。それを知らずに、猫好きの祖母は、漁師の空気が圧倒的な家に嫁いでしまったわけだ」。

〈猫が好きでたまらないのに、人生後半の約三〇年間、猫を飼えなかった祖母の無念が私に乗り移り、猫を溺愛させているのかもしれない。そんな気さえしてきた。 そして同時にこうも思った。漁師の天敵である猫が三〇年ぶりにわが家で復活したということは、とりもなおさず、わが家から漁師的なる空気が完全に消え去ってしまったことを意味しているのではないだろうか。 漁師の末裔としては、猫と暮らせることは嬉しくもあり、また哀しいことでもあるのだった〉

「笑い」が重視され、笑いにシビアな家だったことも考察の対象とされます。おもしろくない話は評価されず、ノンフィクション作家である筆者もかつては「笑いをとりたい」一心で、「ホラに命を賭ける」ことになったといいます。コンニャク屋の人たちが集まると賑やかどころか、笑いすぎて坐っていられず、しまいには「這って笑った」というのはどうしてか? 小さい頃に仏頂面をしていると、「子供は笑うのが仕事だ」と雷が落ちたのはなぜなのか? 常に笑いが絶えない一族の姿に、「板子一枚 下地獄」の海の世界を生きてきたコンニャク屋の血を想像します。「不安と恐怖を麻痺させる、麻薬のようなもの。それこそ、漁師にとっての『ホラ』であり、『笑い』なのではないだろうか」と。

 こうして、淡い記憶をたどりながら過去を遡及することで、筆者が出会うのはいままで意識化できていなかった一族の素顔であり、自らの「血と骨」です。「みんな、いつか消えてなくなってしまう。自分を残して先に逝ってしまう」という恐怖がいつもどこかに張り付いていて、それが過去に目を向けるきっかけだったと筆者は言います。「人はどんな時、家族の歴史を知りたくなったり、人に伝えたくなったりするのか。それは、終わりが近づいている時」だと。

「あとがき」には、3・11の震災体験にも触れられています。「記憶――それは不確かで移ろいやすく、手渡さなければ泡のように消えてしまう、はかないもの。だからこそ、けっして手放したくない、何よりも大切なもの。歴史の終わりとは、家が途絶えることでも墓がなくなることでも、財産がなくなることでもない。忘れること」。

 本を閉じて、ふと目に浮かんだのは、風にはためく大漁旗でした。色とりどりの大漁旗が岩和田漁港を取り囲むように飾られていた式典で、筆者はそこに見覚えのあるコンニャク屋ゆかりの旗を見つけます。父のいとこが乗っていた船です。こんなところで会えるなんて。その旗が風にはためくのを見ているうち、筆者の体に何か訴えてくるものがあります。「ぬしらはここのもんだお。忘れんな」――亡くなった父のいとこから、そう言われているような気がした、とあります。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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