【考える本棚】
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 アゴタ・クリストフ『文盲』(白水社)
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「言葉の受難者」の終着駅------------------------------------------------------------------------

 デビュー作の衝撃が圧倒的だったことを思うと、訃報の扱いはごく控えめなものでした。晩年に新作を発表しなかったことが影響しているのでしょう。たとえば8月2日の「朝日新聞」――。

〈アゴタ・クリストフさん(ハンガリー出身の女性作家)AFP通信などによると、7月26日、スイス・ヌーシャテルの自宅で死去、75歳。 1956年のハンガリー動乱時に反体制活動をしていた夫とともにスイス亡命。78年から亡命後に学んだフランス語で執筆を始めた。代表作に「悪童日記」「ふたりの証拠」「第三の嘘」など。イタリアやスイス、オーストリアなどで文学賞を受賞した〉

 処女作『悪童日記』は、第2次世界大戦末期、ドイツの占領下にあったハンガリーとおぼしき東欧の田舎町が舞台です。激しい時代の荒波を乗り越えて、したたかに、逞しく生き抜く双子の「ぼくら」と、苛烈きわまりない残酷な現実を、身震いするほど非情な文体で描いて世界的なベストセラーとなりました。

 しばらく日本を離れていた私が、帰国後間もなく友人から「いま一番話題になっている本」として教えられたのは、1991年のことでした。聞けば、著者はまったく無名のハンガリー人女性で、50歳を過ぎて書いた、これが初めての小説だといいます。しかもそれは20歳を超えてから身につけたフランス語で書かれたものだ、とも。テーマといい、作品誕生の経緯といい、これは24歳の時にポーランドからアメリカに亡命し、その後英語をマスターして作家デビューしたイエールジ・コジンスキーの『異端の鳥』と同じではないかと思ったものです。全世界に反響を巻き起こしたという点でも共通していました。

 読み始めると、たちまち引き込まれました。主人公たちが悪夢のような、殺伐たる日常を日記につづるというスタイル。修飾語を削ぎ落とし、出来事を淡々と、直截に、躊躇なく描き、一片の感傷もまじえません。心理は無視されます。そこから痛切なアイロニーに充ちた寓意の世界が立ち上がり、黒いユーモアの噴き出す極限状況の物語が展開していきます。

〈ぼくらには、きわめて単純なルールがある。作文の内容は真実でなければならない、というルールだ。ぼくらが記述するのは、あるがままの事物、ぼくらが見たこと、ぼくらが聞いたこと、ぼくらが実行したこと、でなければならない。 たとえば、「おばあちゃんは魔女に似ている」と書くことは禁じられている。しかし、「人びとはおばあちゃんを〈魔女〉と呼ぶ」と書くことは許されている。「〈小さな町〉は美しい」と書くことは禁じられている。なぜなら、〈小さな町〉は、ぼくらの目に美しく映り、それでいてほかの誰かの目には醜く映るのかもしれないから。(中略) 感情を定義する言葉は非常に漠然としている。その種の言葉の使用は避け、物象や人間や自分自身の描写、つまり事実の忠実な描写だけにとどめたほうがよい〉

 翻訳を携えてクリストフの日本デビューのきっかけを作った堀茂樹氏が「そんじょそこらのハードボイルド・ヒーローを遥かに超えるこのような作中人物の創出によって、アゴタ・クリストフは読者たるわれわれを不意打ちした。作中人物の『ぼくら』のみならず、『悪童日記』という小説自体、語られていること・描かれていることの悲惨さにもかかわらず、痛快かつ爽快な作品だ」と述べていますが(ハヤカワepi文庫解説)、1991年1月、湾岸戦争の勃発に動顛していた当時の日本人を、まさに「震撼」(塩野七生)させる強烈な「不意打ち」でした。

 そのアゴタ・クリストフの自伝的物語が本書です。邦訳は5年前に刊行されていたのですが、訃報に接するまで手にする機会がありませんでした。『悪童日記』3部作と同じく、無駄のない簡潔な文体に貫かれた本書は、短いながらもずっしりと重い手ごたえの作品です。過酷な歴史の渦に翻弄され、デラシネ(故郷喪失者)とならざるを得なかった彼女の、言語をめぐる遍歴がそのまま壮絶な半生の記となっています。母語がその人の全人生に占める宿命的な意味合い。家族や故国との別れが、終生作家にとっては癒しがたい心の傷となり、その永遠に失われた世界を取り戻すことこそが、彼女にとって「書く」という行為であったことを改めて知らされます。

〈もし自分の国を離れなかったら、わたしの人生はどんな人生になっていたのだろうか。もっと辛い、もっと貧しい人生になっていただろうと思う。けれども、こんなに孤独ではなく、こんなに心引き裂かれることもなかっただろう。幸せでさえあったかもしれない。 確かだと思うこと、それは、どこにいようと、どんな言語でであろうと、わたしはものを書いただろうということだ〉

「最初のうち、言語(ことば)は一つしかなかった」とあります。故郷の村で家族と暮らしていた頃です。ところが、9歳の時、占領国のドイツ語を住民の四分の一が話す国境の町へ引っ越します。そしてその1年後に、国はロシアに占領され、学校ではロシア語が正課となって、他の外国語は禁じられます。やがて結婚した21歳の彼女は、1956年11月、ハンガリー動乱に際してオーストリアへ脱出します。そしてウィーンの難民センターで、赤ん坊のミルクを手に入れるために、若い母親はかつての「敵語」であるドイツ語を口にします。そこから、スイスへ移り、フランス語使用地域に安住の地を見つけますが、それはまた、まったく未知の言語に取り囲まれた生活と、それを克服するための、長期にわたる「懸命の闘い」の始まりでした。

「根こぎにされた」人々にとっては、たとえ物質的には余裕が生まれたとしても、その代償として失ったものの大きさは埋めようがありません。

〈わたしは微笑む。わたしは彼に言うことができない。自分はロシア人が怖いわけではない、わたしが悲しいのは、それはむしろ今のこの完璧すぎる安全のせいであり、仕事と工場と買い物と洗濯と食事以外には何ひとつ、すべきことも、考えるべきこともないからだ、ただただ日曜日を待って、その日ゆっくりと眠り、いつもより少し長く故国(くに)の夢を見ること以外に何ひとつ、待ち望むことがないからだと――〉

 集合的な記憶や価値観、文化を包み込んだ母語を奪われ、アイデンティティの拠り所を見出せない「砂漠」に暮らす日々。「判で押したような、変化のない、驚きのない、希望のない」生活。仲間からはそれがついに耐えられず、禁固刑が待っていることを知りつつ故国へと戻る者、米国、カナダへと去る者、あるいは亡命生活の最初の2年間のうちに、自ら死を選ぶ者が現われます。存在の根幹をなす母語を喪失した者にとっては、フランス語もまた「敵語」となります。なぜなら、「この言語が、わたしのなかの母語をじわじわと殺しつつある」という深刻な事実に向き合わざるを得ないからです。

 しかしながら、そのフランス語で2篇の戯曲を書き上げた作家は、やがてラジオドラマの注文を受けるようになります。またそのかたわら、子供時代の思い出にもとづく短いテキストを、一本、また一本と書き始めます。そしてある日それらがまとまって、机の上には「きちんと発端と結末のある一貫した物語、まぎれもなく小説のようなものの書き込まれた大きなノートブック」が置かれます。それが、言うまでもなく『悪童日記』(原題はLe Grand Cahier〈大きなノートブック〉)でした。

〈さて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信念をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と〉

 20世紀という時代を象徴する“難民作家”の長い旅――「たまたま、運命により、成り行きにより」、フランス語で書くことを自らに課した「ひとりの文盲者の挑戦」が、いま静かに幕を閉じました。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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