【考える本棚】
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 伊藤礼『大東京ぐるぐる自転車』(東海教育研究所)
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老サイクリストの生活と意見------------------------------------------------------------------------

 自転車が印象的に使われている映画がいくつか思い浮かびます。フランソワ・トリュフォー監督の「突然炎のごとく」では、無二の親友だった二人の男が一人の女性(ジャンヌ・モロー)をともに愛してしまうという物語の中で、三人が一緒にサイクリングをする場面が出てきます。この時白いスカートを翻しながら、颯爽と自転車に乗るジャンヌ・モローが素敵です。アラン・レネ監督の「二十四時間の情事」では、18歳のフランス人女性が、恋するドイツ人ナチス将校との逢引に、ロアール河沿いの道を自転車で急ぐ美しい回想場面が流れます。また「明日に向って撃て!」では、B・バカラックの「雨にぬれても」のメロディをバックに、ポール・ニューマンがキャサリン・ロスを前に乗せて自転車をこぐシーンが効果的です。そして「E.T.」では、E.T.を前カゴに乗せた子供たちの自転車が空を駆けのぼる、あまりにも有名なシーンが目に浮かびます。

 本書が思い出させてくれたのは、「大脱走」のラスト近くの場面でした。絶対に脱出が不可能とされたドイツの捕虜収容所から、主演のスティーブ・マックイーンがオートバイで逃げ出します。ジェイムズ・コバーンは街でくすねた自転車で逃げます。逃げおおせたのはコバーンのほうでした。著者は誇らしげに語ります、「そんなことも自転車の優位性を思わせる」と。

 たしかに自転車は、自由気ままに裏道、脇道を行くことも、肩に担げば階段を上り下りすることも、走るのに疲れれば電車で輪行することも可能です。そこが図体の大きい自動車と決定的に異なるところです。また、自転車は人間の足の能力を何倍にも嵩上げしてくれる「偉大な発明品」ではありますが、どこかユーモラスで親しみやすい、とぼけた味わいがあります。あくまで人力で動かすシンプルな道具だからでしょう。

 著者の伊藤礼さんは現在78歳。作家伊藤整氏の次男で、『チャタレイ夫人の恋人』完訳版の訳者としても知られる英文学者です。日大芸術学部で英語を教えていた伊藤先生は、定年を間近に控えたある日、杉並区久我山の自宅から車で通う大学までの、12キロの道のりを自転車で行ってみようかと思い立ちます。むろん初乗りです。

 家にあった買い物用自転車に空気をパンパンに入れて、勇躍スタート。ところが、15分で音を上げてしまいます。まだ2キロも来ていない地点です。そこからの長い残り10キロは、艱難辛苦の極致でした。ようやく息も絶え絶えに校門をくぐったセンセイに、顔なじみの守衛さんは思わず声をかけてしまいます、「どうかなさいましたか?」。そしてふたたび同じ道を、同じ苦痛に耐えながら帰宅すると、「アンタ! なんて顔してるのヨ!」という夫人の言葉が氏を迎えます。

 それから数年、多くの困難と闘いながら、努力の一語によってそれらを克服。「いま気づくと、老人としては軽々と、すいすいと自転車に乗っているのであった」――という顛末は、前著の『こぐこぐ自転車』、『自転車ぎこぎこ』(ともに平凡社)に描かれた通りです。

 そして、自転車にまたがればそのままどこへでも走って行けそうだ、と胸を躍らせているセンセイが、主たる舞台を東京に絞り、この「無上の楽しみ」となった愛輪生活を縦横に語ったエッセイが本書です。雑誌連載時のタイトルが「銀輪ノ翁、東都徘徊ス」。しかも、連載半ばで心臓にペースメーカーを装着する手術を受けたにもかかわらず、中断わずかに1ヵ月で、すぐさま“前線復帰”を果たすのですから、酔狂を地でいく銀輪魂です。

 ただその語り口は、テーマを一応定めながらも、風の吹くまま気の向くまま。枯れているのかオトボケか、典雅にして自由闊達な調子です。これが読む者の頭のこわばりを解きほぐし、心までのびやかにしてくれる所以です。

〈このごろは乗りすぎているのではないかと、われながら思うほど乗っている……日常生活においても、もう電車や自動車には乗らない。どこに行くにも自転車に乗っている。友人知人の葬式にも自転車で行く。自転車で転んで骨折したときも病院に自転車で行った。なんども自転車で骨折したので、最後、別のことで骨折したとき、医者に「また自転車ですか」と誤解されたぐらいだ〉(本書に関わる「著者転倒地点」6ヵ所を示した地図も添えられています)

〈連日の猛暑だ。カンカン照りである。新聞やテレビは老人が熱中症でどんどん倒れているという。倒れているだけでない。死んでいるという。八月に入ったところで日本全国で九十人は確実に死んでいるらしい。淘汰されているのだ。猛暑はまだ続くらしいから、老人であるわたくしなども危ないといえる。しかしながら、新聞やテレビに威かされっぱなしでいるのもなんであるから、わたくしはどんどん自転車を乗り回している。八月の太陽と対決しているのだ〉

 かくして日照りの夏も寒さの冬も、杉並区の自宅を起点としながら、大東京の東西南北を心ひかれるままに旅します。最新兵器は自転車用のナビゲーターです。といっても、文明の利器は実は補助にすぎません。出発前と帰宅後の走行経路の研究、確認に余念のないところがセンセイの真骨頂。とりわけ地図趣味がここでは遺憾なく発揮されるのです。センセイが「画期的な地図」と激賞するのは、国土地理院の地図をベースにして日本地図センターが作成した『「東京都区部」二万五千分の一 デジタル標高地形図』です。「ぶらぶらと自転車で街を走っていたとき偶然に見つけて購入した」というその地図は、色の塗り分けで地面の高さを表していて、標高データが驚くほどに精細に作られています。この地図の色分けで見れば、「東京の環状線の内部あたりは、凹凸がまるでジグソーパズルの断片を撒き散らしたように複雑怪奇で、しかもじっと観察するとすべてが大きなある理屈の流れによってそうなっている」ことが実感できます。

 センセイはこれを食い入るように見つめたり、また少し遠くからぼんやり眺めたりして、目的地の地形を目に焼き付けてロードに出ます。すると、本郷台地の東側、西側をツーリングしている時に、ペダルを踏む足にきつい坂道のアップダウンを感じても、以前のように慌てる必要がありません。『デジタル標高地形図』のおかげで、「文京区の丘陵と谷間の配列に、なんらかの法則があること」が頭に叩き込まれているからです。かつてのように、坂の出現の仕方が「神出鬼没、無秩序、かつ気まぐれ」で、自分の「脚力の劣悪さをあざ笑う」かのように感じることもなくなりました。「文京区の坂道や谷間は、急な待ち伏せをしようとしても、もうできなくなっていた」と。

 このようにして各方面に繰り広げられる自転車の旅は、老サイクリストの目に映じた東京ガイドブックの役割も果たします。先ほどの本郷台地の東側、西側を走る探検調査を例にとれば、各所で文学関連の連想や夢想に誘われて、ついつい道草を重ねたり、脇道に入り込んだりを繰り返しながら、最後に北大塚3丁目の先にある「谷端川(やばたがわ)跡」という案内板に辿りつきます。そこで当初の探索の目的であった「小石川と千川と谷端川」の隠された川の道すじと改修の歴史を突き止める文章に出会うのです。

〈まさに、知りたかったことだった。小石川と千川と谷端川の全貌を知らしめる文章だ。平成十六年八月に立てられたこの案内板は、今日まで、わたくしを待っていたのだ。文章は簡にして要を得ている。有能な人物の筆だ。なんという名前の、どんな顔の人物なのか。できたら握手をしたい。自転車にまたがったまま、わたくしは感動し続けた〉

 ところで、昨今の話題といえば、警察庁が歩行者保護を柱とする自転車総合対策を打ち出したことでしょう。自転車がらみの事故や暴走運転などのマナー違反を防止するために、従来、法律に定められていた通り「自転車は原則、車道を走る」「歩道では歩行者優先」の原則を徹底するというわけです。しかし、この本でも触れられているように、車道を走れば「絶え間なく後方から襲いかかってくる乗用車、トラック、バス、オートバイ、スクーターの恐怖にじっと耐えていなければならぬ」のも自転車です。歩道を走れば危険視され、車道を走れば邪魔者扱いされる、まことに自転車の立場は微妙です。

 しかしセンセイは最後に「自転車はなぜ良いものであるのか」を概括して、こう述べます。「世の中全体が停電しても走れる。ガソリンが買えなくても走れる。ガソリンを燃やさないから環境に良いし、お金もかからない。人をひき殺したりしない。税金がかからない。一方通行路などかまわずに走れる。細い路地でも走れる。川があっても担いで渡れる。静かだ。走っているときでも停車しているときでも自動車のように広い面積をとらない。健康に良く、肉体を鍛える。壊れても簡単に直せる。長持ちする」。

 こうして、「車庫には自転車が七台並んで出番を待っている」という「伊藤礼氏の生活と意見」が生まれるわけですが、自転車の最大の利点は何かといえば、それは速い、ということだと結論しています。それに自転車は「時間に関して正確である」とも。いずれも異論の余地はありません。ただ、そういう重宝な移動手段であればこそ、現在の自転車問題解決には、いきなり「専用レーンの整備を急げ」などとハードルの高いことを言う前に、都市自転車の公的マナーの向上が先決だと思うのです。現代の「江戸しぐさ」は、老サイクリストが身をもって示してくれている通りです。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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