┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 記者たちの自問自答
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 先日、菊池寛賞の授賞式が行われ、ふたつの地方新聞社――石巻日日新聞社(宮城県石巻市)と河北新報社(宮城県仙台市)が受賞者に名を連ねました。「3・11東日本大震災で被災、数々の困難に直面しながら、地元新聞社としての役割と責務をそれぞれの報道において果たした、そのジャーナリズム精神に対して」という受賞理由でした。震災に直撃され、新聞発行がほぼ絶望視されるような被害を受けながら、両紙はともに強い使命感のもとに、情報に飢えた地元住民たちの暗い足元を照らす明かりのような存在であり続けたのでした。

 石巻日日新聞は震災の翌日から手書きの「壁新聞」を発行したことで話題を呼びました。米紙ワシントン・ポストがその奮闘ぶりを報じ、それを読んだワシントンにあるニュースの総合博物館「ニュージアム」が、壁新聞の展示を行ったことでも注目を浴びました。石巻市、東松島市、女川町を販売エリアとする日刊夕刊紙で、発行部数は約1万4000部(震災発生前)。記者はわずかに6人という所帯ですが、来年の創刊100周年を前に「休刊にだけはしたくない」という意地と、「今、伝えなければ、地域の新聞社なんて存在する意味がない」という衝き動かされるような思いから、手書き壁新聞の発行を決めました。津波で社屋が浸水し、輪転機が作動せず、パソコンが使えない状態でも、「紙とペンさえあれば新聞は出せる」と陣頭指揮に立ったのは社長自らでした。

 壁新聞が、実際に避難所やコンビニなどに号外として貼り出されたのは、3月12日から17日までの6日間で、その壮絶な日々の様子は『6枚の壁新聞――石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』(角川SSC新書)が時系列的に伝えるところです。「津波に飲み込まれながら、浮流物につかまり一晩漂流したのち、翌朝ヘリコプターで救出された記者」、「車で逃げる途中、渋滞のために車から飛び出したところ、津波に後ろから追われ、走って山の上に逃げて生き延びた記者」、そして押し寄せる津波の濁流に囲まれて、社屋に残った社員たち。それぞれが生死と向き合う苛烈な状況から、次第に力を合わせ、いかにして手書き壁新聞の発行に奔走したかという記録です。

 一方の河北新報は創刊が1897年。社員560人を擁し、東北地方を代表するブロック紙です。「河北」は「白河以北」を意味し、「白河以北一山百文」(白河の関より北の地域は、一山が百文の値打ちしかない荒地ばかり)という明治維新以来の侮蔑的な表現に反撥して、「東北振興」と「不羈独立」を社是に掲げたのがルーツといいます。創刊以来、無休刊を宣言し、今回も「紙齢は絶やさない」という伝統を引き継ぎ、全力で新聞の発行をめざしました。その闘いを詳述した『河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙』(文藝春秋)を読むと、石巻日日新聞と同様に、新聞のもつ根源的な意味と力について改めて考えさせられます。ふだん東京で全国紙しか読んでいない私たちにとっては、地域に視点を据えた地元紙の果たす役割についても目を開かれる内容です。

 河北新報は、かろうじて本社ビルが持ちこたえたものの、組版のシステムに致命的な打撃を受け、新潟日報の助けを得てようやく新聞発行に漕ぎつけました。阪神・淡路大震災の時、神戸新聞が「緊急事態発生時の新聞発行援助協定」にもとづき、京都新聞に協力を仰いで難局を切り抜けたのと同様です。河北新報社長は震災発生直後、すぐに対策会議を招集し、全社員に対して議論を公開すると同時に、情報の共有と集約・伝達の仕組みを作ります。冷静な指揮ぶりは水際立っており、「われわれは地域の住民に支えられて百年以上、この地で新聞を出すことができた。その住民が大震災で苦しんでいる。今こそ恩に報いる時だ」と会議を締めくくっています。そして、震災発生から3日目は日曜日でしたが、月曜朝刊まで「24時間の情報ブランク」を生じさせることは絶対に避けたいと考え、日曜夕刊の発行も即座に決定しています。

 しかし、本社はまだしも、沿岸部にある支局は流失その他の壊滅的な被害を受け、取材するにも交通網がすべて麻痺している状況でした。それでも、11日夜、号外1万部が刷り上り、仙台市内の避難所を中心に配付されます。停電でテレビが見られず、インターネットも使えない中で、人々は奪い合うようにして手に取り、そこで初めて災害の凄まじさを知ることになるのです。

 13日朝刊。気仙沼市街地で取材中に津波に巻き込まれ、九死に一生を得た28年目の古参記者が、寒さでかじかむ手で書いた「津波遭遇体験ルポ」が掲載されます。「白々と悪夢の夜は明けた。湾内の空を赤々と染めた火柱は消えていたが、太陽の下にその悪夢の景色はやはりあった」――手書き原稿はコピーし損じの2枚の紙の裏面にエンピツで書き込まれ、ホチキスでとじられていました。それを仙台まで若い記者が車で運び、締切時刻に間に合わせたものでした。

 新聞を届ける販売店の打撃も深刻でした。しかし、店も自宅も流された宮城県女川町の販売店主は、新聞を食い入るように読んでいる被災者の熱いまなざしを見て、「絶望しているヒマはない。俺は新聞を届け続けよう」と、全身に使命感がみなぎったと証言しています。記者たちも、家族の安否や自分たちの問題は二の次にして、現場に足を踏み入れ、被害の凄まじさに絶句しながら、懸命に「被災者に寄り添う」震災報道をめざします。

 ただ、被災者と間近に接すれば接するほどに、記者たちは悩み、迷い、自問自答を繰り返すことになりました。震災による県内の死者が、おそらく万単位になるであろうと述べた宮城県知事の発言。これを14日朝刊の一面トップにする時、整理部記者は苦しみます。「死者『万単位に』」が順当な見出しであるとしても、被災者がこの字面をどう受け止めるだろうか。悩んだ末に、彼は「犠牲『万単位に』」と改めます。それがはたして正しい判断だったのか、どうか……。

 あるいは共同通信がスクープ写真として配信してきた7枚の組み写真。南三陸町の三階建てビルが津波に呑まれる瞬間を連続撮影したものです。津波が押し寄せる直前の1枚には、防災服にヘルメット姿の町職員ら約30人がビル屋上に避難している様子が写っていました。その次のカットでは、ビル屋上に波がかぶり、避難者が無線塔によじ登ったり、フェンスにしがみついたりしてこらえています。人数は30人が10人ほどに減っていました。

「津波が人々の命を奪った瞬間をこれほど生々しくとらえた写真はない。……これを掲載しない手はないだろう」――報道部のデスクたちは掲載に積極的でした。「いかに凄惨なシーンであっても、事実を伝えるのが報道の使命」だという立場に立てば、正しい判断です。しかし、地域で最も読まれている影響力の大きい地元紙が、この写真を載せたらどういう反響を呼ぶだろうか。さんざん悩んだ末に、編集局長は「掲載見送り」の断を下します。他の多くの加盟社が、翌日の紙面でその写真を使用したのとは、好対照の対応となりました。

 ヘリに乗って空撮をしていた写真部カメラマンの証言もあります。震災翌日の早朝、福島空港から被災地上空をめざして飛び立ったヘリに乗り込んだ彼は、石巻市上空に来た時、ある光景を目にします。

〈小学校の屋上に「SOS」の文字が見える。白紙を並べて文字を作ったのだろう。救出を待つ人々がヘリに向かって腕を振って大声で叫んでいた。周囲は浸水している。 手を差し伸べたいが、何もできない。無力感で折れそうな心を抱えながら、上空を旋回して写真を撮り続けた。「ごめんなさいね、ごめんなさいね、ごめんなさいね……」 突然、隣席に座る中日のカメラマンがつぶやきはじめた。「僕たちは撮ることしかできない。助けてあげられないんだ……」〉

 ヘリに向かって必死に手を振り、救助を求めていた人たちの「その後」の真実が判明したのは、約2ヵ月後のことでした。学校まで避難した周辺住人や教員、児童ら約600人は、そこで孤立したまま、ヘリが飛び去った後の数日間、飢えと寒さに襲われながら過ごしていたのです。避難者は1300人にまで膨れ上がったといい、医療チームが救命に派遣されたのは1週間後のことでした。空撮したカメラマンにとっては想像を絶する「その後」でした。

〈新聞に写真が載れば自衛隊や警察の目に留まり、速やかな救出活動につながるのではないか、そうすれば間接的にも人命救助に貢献したことになる……そんな思いで自分の気持ちを割り切っていたのだが、現実は遥かに厳しいものだった。医療チームが入るまで相当な時間がかかり、あの写真が結果として無力だったことが分かった。いったい報道とは何だ? 俺の仕事は本当に人の役に立っているのだろうか?〉

 社の退避命令を受けて、いったん福島を離れた記者たちの声も痛切です。上司の元に歩み寄り、「俺は福島勤務の記者です。現地に行き、腰を据えて取材に取り組まないと、報道機関の責務を果たせないような気がするんです」と、福島帰還を訴えた記者。ある女性記者も「なぜ福島を離れたのだろうと深く悔やんでいる。記者失格だ」と日記に綴り、上司に改めて現場復帰を訴え、許可されます。「何でもいいから戻りたい。このまま戻らないと、一生立ち直れない」。

 しかし、震災から五ヵ月後に、この女性記者は記者の仕事に区切りをつけました。「今回福島を離れた私の姿は、自分がこれまで追い求めた理想の記者像とあまりに懸け離れ、その落差に言いようのない絶望感を覚えました。自分の中の弱さ、報道の使命、会社の立場……それらいろいろな因子の折り合いをつけて前に進むのが記者なのかもしれません。でも、一度福島を去った私にはそう割り切ることができなかった。震災後をどう生きていけばいいのか、記者の立場を離れた一人の人間として考えようと思いました」。

「そもそも報道とは何なのか?」――この本の締めくくりは、記者たちを指揮した報道部長のこの言葉で結ばれています。おそらく、それに対する明確な答え、正しい解はないのだろうと思います。「初日より、取材を重ねた日々の方が、つらさや痛みが募った」という記者が多かったように、取材対象に寄り添おうとすればするほど傷つき、個々人が葛藤を抱えながら、ペンを執り、カメラを向けて立ち向かうしかなかったのでしょう。

 それで思い出すのは、阪神・淡路大震災の時の、被災記者たちの闘いを描いた『神戸新聞の100日』(角川文庫)です。あれも凄まじい本でした。未曾有の大災害に巻き込まれながら、それでも(それだからこそ)「何としても新聞を出せ」という社長の叱咤激励の下、あらゆる困難を超えて紙面を制作し、それを読者に送り届けた姿には胸を打たれました。とりわけ驚かされたのは、被災の程度、家族の安否、周辺の状況の違いこそあれ、社員が続々と会社をめざして急ぐ姿でした。

〈さまざまな事情を抱えながら、瓦礫と大渋滞の波を越え、記者たちは徒歩で、自転車で、ミニバイクで、ヒッチハイクで、それこそ群がるようにして三宮の本社に集まってきた。 もちろん編集局だけではない。総務、経理など管理部門、販売、広告、事業、制作、印刷など、すべての部門の多くの社員が社を目指した。火災で自宅を失いながら後方支援に徹した社員がいたし、全壊家屋の中から娘を救い出してから社に駆け付けた者もいる。離れて住む家族の安否が分からないまま、勤務を続けた社員も少なくない。災害時の行動マニュアルがあったわけではないし、そんな訓練をしたこともなかった。 なにが社に足を向けさせたのだろうか……〉

 この問いには、実はほとんどの社員が「分からない」と首をひねったといいます。当時の編集局長自身も、「とっさの思い付きだが」と断った上で、こう語っています。

〈使命感、記者魂、愛社精神……それはあっただろう。だが本当に我々を奮い立たせたものは、もっと本能に近いものだったのではないかという気がする。人間が死ぬかもしれない危機的状況に陥った時、生きるためにもがくのに似ている。新聞が発行できないということは、新聞社の終焉を意味する。生きるために、新聞社の細胞であり、器官であり、手足であるすべての社員が本能的に動いた。新聞人としての本能が働いたとしか言いようがない〉

 報道とは何か? 改めてその問いの前に立たされたのが今年でした。2012年もまた、それは引き継がれます。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)