【考える本棚】
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 宮島英紀『伝説の「どりこの」 一本の飲み物が日本人を熱狂させた』
(角川書店)
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“昭和の聖水”を求めて------------------------------------------------------------------------

「どりこの」とは、なんともへんてこな名前です。命名の意図も不可解ですが、いまではすっかり忘れ去られたこの液体が、昭和初めに一大ブームを巻き起こした人気商品であり、しかも発売元があの講談社であった――と聞けば、著者ならずとも、その正体を突き止めたくなるのは当然です。

「どりこの」とは、いったいどんな飲み物だったのか? なぜ爆発的に売れたのか? 大手出版社がどうしてそれを売ったのか? そして、それはなぜ消えたのか? ――田園調布の住宅街で、ふとした拍子に目にとまった「どりこの坂」という標柱。この出会いがしらの衝撃が“知りたがり屋”のツボを押しました。以来、足かけ8年にわたる発掘調査が始まり、昭和の闇の奥に埋没しかけていた、幻の飲料の実像が次第に明らかにされていきます。

〈「友達がみんな飲んでいる!」といって親にせがんで買ってもらったものだ。やさしい甘さだった。今あれば、もう一度飲みたい〉

 田辺聖子さんが本の帯に寄せている言葉です。450cc入りで定価1円20銭。現在の価格にすれば、5000円から6000円といいますから、決して安い値段ではありません。原液を5倍から7倍の冷水や湯で薄めて飲むとはいえ、「庶民には手の届かぬ贅沢品だったにちがい」ありません。

 それにもかかわらず、大ブームが起きました。発売元の講談社には、「血色がよくなった」、「胃病が全快した」、「子供のカンの虫がおさまった」、「喘息が改善した」、「便秘がなおった」、「精力がついた」、「勉強ができだした」といった感謝の手紙が次々と舞い込みます。挙句は、危篤に陥っていた父親が生き返ったと、「家族中が喜びにうち震えている」歓喜の手紙が届きます。まさに霊験あらたかなる万能の飲料が世を席捲した観があります。

 発売当初、年間生産量は5万本程度でした。昭和4年に日本橋の三越本店で販売され、銀座の資生堂パーラーだけで飲むことができたといいます。ところが、「どりこの」の存在を知った講談社の創業者である野間清治社長が、昭和5年にその発明者である高橋孝太郎博士と独占販売契約を結びます。そして、野間社長の陣頭指揮の下、「なにごとが起きたのか」と世間を瞠目させるような「破天荒な大宣伝」と、「販促史上例を見ない超弩級のキャンペーン」が展開されます。すると、一気に売上が急伸。本格的な発売開始からわずか1年にして、約220万本を生産するまでにブレイクします。

 ブドウ糖を主成分とする「どりこの」は、さわやかな甘みと滋養を売り物にした健康飲料でした。その頃の日本人の平均寿命は、男44.82歳、女46.34歳という短命ぶり。「抗生物質の普及までには、まだ十数年の時を待たねばならず、人々は肺炎や結核などの細菌感染症におびえ」て暮している時代でした。また、昭和4、5年といえば、世界恐慌が吹き荒れ、国内の不況も深刻の度を増し、「大学は出たけれど」が流行語になるような暗い世相でした。

〈そこに彗星のごとくあらわれたのが「どりこの」である。『美味と滋養の二重奏』『心氣を爽快にし元氣を百倍す!』といった華々しく、頼もしいコピーをひっさげて登場した「どりこの」に、人々はキラキラと輝く希望を見たにちがいない。 定価の1円20銭は、決して安価とはいえないものの、節約すれば庶民にも手が届く価格設定だったこともあり、“甘い誘惑”に吸い寄せられた人々の間に、「どりこの」はたちまちブームを巻き起こしていった〉

 それにしても、怒濤のようなPR作戦が繰り広げられました。新聞・雑誌へのこれでもかという広告攻勢。宣伝ポスター、垂れ幕、アドバルーン、仕掛け花火、どりこのネオン等々が次々と登場し、いまでいうキャンギャルを起用した試飲実演会が話題を呼びます。著名人、人気スターを総動員した愛飲者のコメントをはじめ、子供たちのヒーロー「のらくろ」までが「こいつァ豪儀だ! 人間世界で大評判なのも當然だワイ!」と推薦の弁をふるいます。

 さらにアッと驚く「大景品つき大売出し」が名古屋、大阪では開かれます。名古屋では、「内地産上等白米1俵」(1000名)が松坂屋脇の空き地に大山を築き上げ、「奈良名所遊覧招待」(100名)、「市電またはバス回数券1冊」(200名)、「名古屋城拝観券」(1000名)、「活動写真招待券」(3000名)という、空クジなしの大盤振る舞い。

 大阪では、同じく「上等白米」(1000俵)をはじめ、「ヤマサ醤油(9升入り)」(2000樽)、「どりこのゆかた」(3000反)、「講談全集」1冊進呈(3万冊)などが用意されます。また高島屋で「日本一づくし展覧会」を開催する際には、高島屋壁面に超巨大な「どりこの横断幕」を張りめぐらせ、街にはチンドン隊や行燈行列隊が繰り出します。ここまで徹底した「ド派手で濃厚な」宣伝は、さすがの浪速商人の度肝をも抜き、「大阪では3歳の童子でも“どりこの”を知らざる者なし」の評判をとったといいます。

「宣伝狂」とも称された野間社長の執念のPR攻勢を両輪の一方とするならば、もう片方で「どりこの」の大躍進を支えたのは、講談社ならではの少年部という組織でした。満14歳以上、20歳以下の独身男性で、小学校卒業以上の学力を持ち、身体強健、思想堅実な少年たちからなるこの部署は、野間社長独自の教育観に基づいて作られたものでした。

 採用は、大正2年から昭和17年まで続けられ、昭和11年には約460名の正社員
に対して、少年部員は約430名の大部隊だったといいます。彼らはおよそ3年か
ら5年の修業を経て社員見習いとなり、さらに2、3年で昇進し、一人前の社員
への道が開かれました。叩き上げの少年部出身者は、やがて編集長や重役になっ
た者も少なくなく、「講談社の歴代副社長8人のうち、じつに4人が少年部出身」
だといいます。


「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)