【考える本棚】
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 米原万里『マイナス50℃の世界』(角川ソフィア文庫)
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住めば都------------------------------------------------------------------------

「ラニーニャ」が原因とか言われていますが、今年はいつになく寒い冬になりました。大雪が続いている日本海側に比べれば、東京の寒さなど大したことはありませんが、それでも冷たい風に身を震わせる日が、例年にまして多く感じられます。だから仕方がないとも言えるのですが、日がな「寒い、寒い」を連発する人がいます。わが家にも約1名――。起きるなり「うー、寒い」。しばらくすると、「おー、さむ、さむ」(……)。と思えば、「きょうは一段と冷え込むみたい」(あ、そう)。「異常よね、この寒さ」(……)、「この冬いちばんの寒さじゃないかしら」……と、きりがありません。

 そういう人に一度読ませたいとかねがね思っていたのが、今度、文庫化されたこの本です。1984年12月から、TBSテレビのドキュメンタリー番組取材班の通訳として、著者は65日間、気温がマイナス50℃まで下がる酷寒のシベリアを横断しました。北極よりも寒い地域を、最も寒くなる時期にあえて旅したのです。

 のっけから驚くような話が続きます。出発前に極寒対策として、スタッフは晴海などのマイナス45℃の冷凍庫に入って、防寒着や撮影機械をおおう断熱材、カメラ作動のテストを入念に繰り返しました。ですから、現地に飛行機が到着し、「外の気温はマイナス三九度」の機内アナウンスが流れた時は、「軽い、軽い」といささかもたじろぐところはありませんでした。

〈ところが機外へ一歩ふみ出したとたん、チクチクとさすようないたみが鼻の中を走りぬけました。鼻毛や鼻の中の水分が凍ってしまったのです。 タラップを一段、二段と下りるにしたがって、いたみは増し、顔を出してはいられません。わたしはあわててマフラーで顔をおおいました。…… そのうちに毛糸のマフラーでおおった顔の鼻と口のあたりが、みるみる白くなっていきました。はく息の水分が、またたくまに凍っていくのです。 目の表面の水分が氷のまくになってしまい、まばたきするにもりきまねばならなくなってきました〉

 それなのに、出迎えてくれた地元のテレビ局の人たちは、口をそろえてこう言いました。「みなさんは日本から暖かさを運んできてくれましたね。マイナス三九度なんて、こんな暖かい日は久しぶりです」。

 そこからは、日本の常識では推しはかれないとんでもない話の連続です。そもそもこの取材は、約200年の時を隔てて、江戸時代半ばにこの地に漂着した大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)たちの足跡を改めて辿り直そうというものでした。

 船頭、大黒屋光太夫が、伊勢白子(現在の三重県鈴鹿市)の浦を出帆したのは1782年12月13日のことでした。その夜、激しい時化に見舞われた船は、漂流すること8ヵ月。アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着します。そこで4年間を過ごしたところで、流木を集めて船をつくり、カムチャッカに渡ります。カムチャッカで1年を過ごすうち、現地人やロシア人の助力を得て、ようやく漂流から6年目にオホーツクに上陸。そこから極寒のシベリア大陸横断の旅が始まります。光太夫たちは日本への帰国を嘆願するため、3年がかりで当時のロシアの首都ペテルブルグ(現在のサンクトペテルブルグ)に辿りつき、女帝エカテリーナ二世に謁見、帰国の許可を得ます。そしてふたたびシベリアを横断して、カムチャッカから北海道・根室に帰国を果たすのです。それが1792年9月のこと。17人いた仲間は次々に命を落とし、最後まで生き残ったのは光太夫と磯吉という乗組員だけでした。

 この約10年、4万キロにわたる旅をとことん追体験してみようという企画に、著者は同行したのです。取材班の中で、唯一の女性でした。「果して大丈夫だろうか」という懸念も当初はあったようですが、「実際に極寒地帯に入っていくと、北極に挑んだ和泉雅子のようにいくつかの状況で男を上回る実力を発揮していった」と証言するのは、番組にリポーターとして出演していた椎名誠さんです(『シベリア追跡』集英社文庫)。

 では、その想像を絶する寒さとは、一体どんなものか。いくつかの事例を紹介してみましょう。舞台は旧ソ連邦ヤクート自治共和国(現ロシア連邦サハ共和国)の首都ヤクーツクです。

・ヤクーツクの市内には、冬中晴れない霧が出る。これは「居住霧(きょじゅう む)」といって、人間や動物の吐く息、車の排ガス、工場の煙、家庭で煮炊き する湯気などの水分が、すべて空中で凍ってしまうためにできる霧。このため、 マイナス40℃以下になると、市内での撮影は難しくなる。

・市内には、シベリア原生林育ちのみごとな丸太材の木造家屋が多数ある。とこ ろが、どの家もおそろしく傾いている。永久凍土(ツンドラ)の上に建てられ ているので、大地の表層部分が凍結と夏のゆるみを繰り返す度に、建物は土台 からねじれ、ひしゃげて曲ってしまうのだ。どんな建物も50年とはもたないそ うだ。

・ヤクート人の冬の休日は釣りが何よりの楽しみ。川の氷に穴をあけて魚を釣る。 空中に釣り上げられた魚は、ピクッピクッ、そして三度目にピクッとする前に 凍ってしまう。天然瞬間冷凍というわけだ。

・「鉄などの金属製品に決して素手でふれちゃいけない。瞬間やけどで皮ふがく っついて切りはなせなくなってしまうからね」と注意され、数年前の恐怖物語 を聞かされる。「子どもというのは、何でもさわったり、なめてみたりするも のだ。マイナス五〇度を下回ったある日、三歳のぼうやが庭の鉄さくをひとな めしたのだが、その瞬間に舌がさくにくっついてしまった。鉄さくは大きくて、 凍土に深くくいこんでいるので動かすことができない。そのままにしておくと ぼうやは凍死してしまう。結局、舌の一部を切りとってさくから切りはなした のだよ」

・日本を出発する前に、冷凍庫で試験済みの防寒着を用意してきたが、合成樹脂 でできた人工皮革製のブーツはマイナス50℃以下の戸外を歩き回った途端に、 破けてしまった。ビニール製のバッグも、戸外に出ると、一瞬のうちにコチコ チにかたくなり、ひびが入ってちぎれてしまった。薬びんのプラスチックのふ たを開けようとしたら、パラパラと粉状になって崩れた。「とにかくビニール、 プラスチック、ナイロンなどの石油製品は、マイナス四〇度以下の世界では通 用しない」。現地の人が身に着けているのは、頭のてっぺんからつま先まで、 すべて天然の毛皮である。

 ……こんな按配です。行く前に「飛ぶ鳥も、寒さに凍えて落下してくるらしい」とか、「用を足すときは、金槌忘れんようにな。オシッコが外気に触れたとたん、凍って棒状になるから、……出た端から、バシッバシッと金槌で棒状オシッコを叩き割るんだぞ」などとさんざん脅されてきた「北半球の寒極」。後者については取材陣も興味津々だったそうで、椎名誠さんが「シベリア極寒立ち小便」の体験談を詳しく報告しています(前掲書)。また、この旅の副産物として『ロシアにおけるニタリノフの便座について』(椎名誠、新潮文庫)という抱腹絶倒の作品も生まれました。

 滞在中の平均気温がマイナス50℃、経験した最低気温はマイナス59℃だったという65日間の旅でしたが、この本の面白さはそうした厳しい自然環境の中でも、たくましく、楽しげに暮らしているヤクート人の様子が、生き生きと伝わってくるところです。著者はそれを「目を見張る思い」で、鋭く興味深く見つめています。大都会や南方の気候温暖な地方に暮らす機会があっても、やがて寒さが恋しくなって故郷に帰ってくるという人たち。極寒の中での暮らしがすっかり板についてしまった人々は、この自然条件に強い愛着すら抱いています。椎名さんの本にも、「ヤクーツクの方がイルクーツクより寒いから、体がひきしまって、健康にいい」という理由で、こちらに引っ越してきたおばあちゃんの話が出てきます。実際、「ヤクートの寒気はかんそうしていて風もないので、とても快適だし健康にいいんです。その証拠に、ヤクートは、コーカサスにつぐソ連第二の長寿国なんですよ」という意外な事実にも出会います。

 さて、この本は多くの著作を遺した米原万里さんの処女作でした。取材旅行から帰国後、その時の体験を「毎日小学生新聞」に連載し、1986年に出版しました。ところが、それが「幻の処女作」となりかけていたので、再編集して復刊したい、という話が持ち上がりました。著者はそれを申し出た編集者に、「もう一度取材して、加筆したい」と言っていたそうです。しかし、直後からがんの病状が悪化し、取材も加筆もかなわなくなりました。カラー写真と他のエッセーを補って、21年ぶりに貴重な処女作がよみがえったのは、著者が56歳の若さで逝った、翌2007年のことでした。

「毎日小学生新聞」に執筆していた当時の様子は、実妹の井上ユリさんが、復刊された単行本の「あとがきにかえて」で伝えています。

〈小学生にわかるように書く。教材としても使えるよう、科学的にまちがいがあってはいけない。そのために姉は、あらゆる資料を集めてよく調べ、調べたことをやさしいことばにおきかえていました。毎回、大変努力していたのを思い出します。むずかしいことをわかりやすく書く。そのために徹底して調べる。この二つは、姉のその後の作品すべてに通じる、作家としての基本姿勢でありました〉

 小学生にはもちろん、大人も楽しんで読むことのできる物語の書き手として、著者は大きな可能性を秘めた人でした。『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年、角川書店)や『オリガ・モリソヴナの反語法』(2002年、集英社)の世界をさらに純化しながら、ユーモアとアイロニーをおりまぜた面白い物語を彼女ならきっと書くだろうと楽しみにしていました。その意味では、著者の死後、何冊もの著作が刊行されていきましたが、彼女のあり得たかもしれない可能性を、もっとも感じさせてくれるのがこの作品です。ここには優れた語り手(コミュニケーター)であり、アイディアの人であった著者の資質が、少し生真面目な表情を残しながらも、のびやかに流露しています。

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)